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ゴフマン「専門家を信じるのではなく、自分自身で考えて判断せよ」

「女性はいくらでもうそをつけますから」の真意… update2

杉田議員、女性はいくらでもうそ 自民党の合同会議で蔑視発言
2020/9/25 13:32 (JST)9/25 18:41 (JST)updated ©一般社団法人共同通信社
自民党の杉田水脈衆院議員は25日の党の内閣第一部会などの合同会議で、女性への暴力や性犯罪に関し「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言した。被害者を蔑視する発言で批判が出るのは必至だ。
 杉田氏は会議後、記者団に「そんなことは言っていない」と述べて発言を否定したが、会議に参加した複数の関係者から、杉田氏の発言が確認された。杉田氏は、会議で来年度予算の概算要求を受け、女性への性暴力に対する相談事業について、民間委託ではなく、警察が積極的に関与するよう主張。被害の虚偽申告があるように受け取れる発言をしたという。

被害者の声を封じ込める論法を内閣第一部会で披露したのでは?w

たぶんネトウヨには、軍資金調達の為ならいつでも日本の若い女を人身売買(臓器売買、臓器狩り)しなければならない決意があるのだな…

なにやら脚本付きコメディの予感w

rui.jp→三菱と天皇一族と福沢諭吉 - るいネット

近代市場の拡大 280559 三菱と天皇一族と福沢諭吉

小澤紀夫 ( 40代 大阪 営業、企画 ) 13/09/05 AM02 【印刷用へ】

 実業家岩崎彌太郎と啓蒙思想家福沢諭吉の一目を置き合う関係がありました。慶応義塾や東大から多くの人材が三菱には採用されました。  彌太郎は豪語しました。 「番頭や手代を学識者にすることは出来ないが、学識者を番頭や手代にすることは出来る」

三菱グループのHP 「福沢諭吉と弥太郎」 リンクから引用します。

<引用開始>
大阪にある中津藩の蔵屋敷で福沢諭吉が生まれたのは天保5年。土佐の田舎で彌太郎が生まれた翌日だった。福沢 は蘭学を緒方洪庵(こうあん)に学び、ついで英語を勉強した。幕府の欧米使節に随行すること三度、著述活動を通じて西洋の制度・理念の紹介に努めた。

慶応3(1867)年の10月、長崎商会の主任だった彌太郎は長崎から船で京都に向かった。21日の日記に記している。 「晴、早朝下関を発つ。…壇ノ浦では歴史に思いを馳せる。船室に入って、西洋事情二冊を読了する。…夜、広島の御手洗港に着く。…風雨激しくなる」。福沢の著書『西洋事情』は当時のベストセラー。彌太郎、33歳。福沢への一方的出会いだった。

福沢は慶応4年、三田に慶応義塾を開設し教鞭をとる。その翌々年、彌太郎は大阪で海運業を立ち上げた。明治6年には三菱を名乗り、翌7年東京に進出した。

当時の最大手は日本国郵便汽船会社。態度大きくいかにも乗せてやるという風情。これに対し、新興の三菱は、店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対する。武士の意識が抜けず笑顔の出来ない者には、彌太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し「お客を小判と思え」と指導したという。これを聞き、自ら両社の現場を視察した福沢は、「岩崎は商売の本質を知っている…」と塾生に語ったと言われる。

実物が三菱東京UFJ銀行の本店に保管されている。

初期三菱には当然のことながら土佐出身者が多かった。石川七財(しちざい)、川田小一郎らに代表される幕末・維新の激動の中を生き抜いた仲間だ。ところがある時期から、土佐とは直接関係のない学識者が増えて行く。彼らは三菱の経営の近代化に大きな役割を果たす。

その背景には実業家岩崎彌太郎と啓蒙思想家福沢諭吉の一目を置き合う関係があった。慶応義塾や東大から多くの人材が採用された。彌太郎は豪語した。「番頭や手代を学識者にすることは出来ないが、学識者を番頭や手代にすることは出来る」

【福沢門下生の活躍】

明治8年、彌太郎の頼みに応え福沢が推薦して、荘田平五郎が入社した。翻訳係、すなわち西洋知識の導入担当である。まず、三菱の会社規則が作られた。冒頭で「当商会は…まったく一家の事業にして…会社に関する一切の事…すべて社長の特裁を仰ぐべし」と、社長独裁を明快に謳った。三井や住友と決定的に違うところである。

後に三菱の第二代社長岩崎彌之輔に丸の内の土地を買い取るよう進言したのは荘田平五郎だった。その意味では日本屈指のオフィス街、「丸の内」の生みの親ともいえる。

三菱汽船会社規則
会社の利益・損益ともに社長の一身に帰し、利益が大きいときは月給を上げることもあるが、損益が大きいときは月給を減らすこともある、などあくまで社長主体の会社体裁が規定されている。 (三菱史料館所蔵)

彌太郎自身は西洋の学問を学んでいない。にもかかわらず早々に複式簿記を採用し、原価償却の概念も取り入れている。福沢門下生の言うことを理解できた柔軟な頭脳は、おそらく長崎以来の外国商人との長い付き合いの中で培われたものであろう。

初期三菱には、荘田のほか、日本郵船の社長になった吉川泰二郎、後に日銀に転じて総裁にまでなった山本達雄、明治生命を創設した阿部泰蔵(たいぞう)ら、錚々たる福沢門下生がそろっていた。福沢は「実業論」の中で、経営者・岩崎彌太郎を、こう評価している。 「岩崎社長は…広く学者社会に壮年輩を求めてこれを採用し、殊に慶応義塾の学生より之に応じたる者最も多かりしが…社員おのおのその技量を逞しくし、良く規律を守りて勉励怠らず、社務整然として…他諸会社に対して特色を呈した…」

彌太郎の長男久彌も、幼少時、明治8年から3年間、卒業したばかりの豊川良平のもとで慶応義塾に通った。
<引用終了>

天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社:日本郵船と福沢諭吉との関係を説明するブログリンクもあります。

<引用開始>
 1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立されました。明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていましたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはありませんでした。そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。

 賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻)

 1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われる事になりました。日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた事は言うまでもありません。天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人と言われております。

 大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていたのです。その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだわけです。その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられましたが、大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」されました。天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来ました。

 天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者なのです。

 天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁されました。そして売春を強制されました。初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。これが従軍慰安婦の原型とも言えるでしょう。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化しまた。

この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設することになりました。渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設されたしろものです。 (山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する事に至りました。
<引用終了>

福沢諭吉の孫と岩崎弥太郎の孫は婚姻関係になっています。

からゆきさん、昭和天皇、三菱、慶応、日本郵船、商船三井…

責任を何もかも昭和天皇裕仁に押し付けて金もうけw、ずっと内務省と枢密院の責任転嫁モデルを使いまわしている…

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