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神近義邦と長崎県のGoToビジネスを解読… update6

【速報】ハウステンボス創業者の神近義邦氏死去 9/5(土) 12:08配信
西日本新聞の取材に応じる神近義邦氏=2017年1月
 長崎県佐世保市の大型リゾート施設ハウステンボス(HTB)創業者の神近義邦(かみちか・よしくに)さんが5日午前7時49分、病気のため、佐世保市の医院で死去した。78歳。長崎県西海市出身。通夜は5日午後5時から、葬儀・告別式は6日午前11時から、佐世保市早岐1の1の25、早岐メモリードホールで。喪主は次男公孝(きみたか)さん。
【写真】1992年、ホテルヨーロッパを背に感慨深げな神近義邦さん
 旧長崎県西彼町役場職員や同県職員などを経て、西彼町に観光果樹園を建設。1980年に果樹園の敷地を利用して動植物公園「長崎バイオパーク」を開園。83年には近くに「長崎オランダ村」をオープンさせた。
 92年に長崎県佐世保市の大村湾に面した工業団地用地152ヘクタールを買収し、HTBを開業して社長に就任。約2200億円を投じ、園内に運河が流れるオランダの街並みを再現。ホテルや美術館などを整備した。
 開業から2年半余りで入場者数1千万人を突破するなど、九州を代表するテーマパークとなったが、バブル崩壊後の景気低迷の影響で入場者は次第に減少。ばく大な初期投資から多額の負債も抱え、2000年に社長を退任した。HTBは03年に会社更生法の適用を申請した。
 経営の第一線から退いていた16年には、長崎オランダ村跡地に整備された交流施設「ポートホールン長崎」の運営会社会長に就任したが、経営は振るわず、半年ほどで退任した。

wikipedia.org→神近 義邦(かみちか よしくに)

現在の長崎県西海市西彼町出身。長崎県立西彼農業高等学校定時制2年生のときに神近家に養子に行き(旧姓・島田)[1]、高校卒業後、1962年に西彼町役場へ就職。農業指導を担当して実績を上げた。長崎県庁出向(1971年~1972年)後、1973年3月町役場を退職。長崎県庁時代に西彼町内の土地買収を計った東京永田町の料亭「一條」と関係を築く。西彼町の自然休養村事業事務局長に就任した1973年に「一條」の相談役として20万平方メートルの敷地で観光果樹園建設事業に着手した。しかし、「一條」の経営破綻により観光果樹園造成工事費4千万円が未払いとなり、借財の返済のため役所を辞めて上京し、「一條」の専務取締役として経営再建に手腕を発揮した[1]。

「一條」の女将・室谷秀の娘婿・高橋高見が創立したミネベアグループの幹部として働いた[1]。不動産部長として1979年にヨーロッパへ出張時に地中海でクルージングを楽しんだ際に、故郷の大村湾を観光地化するオランダ村の原型となる計画を発想した。その後、自らの観光果樹園を基礎として1980年に開園した長崎バイオパークからほど近い国道202号線沿いの生簀料理店を全面改装する形で、長崎オランダ村を1983年7月22日にオープンさせた。

東京永田町の料亭「一條」w

wikipedia.org→ミネベアミツミ

防衛関連機器
戦前や戦時中に多くの銃器を生産した南部麒次郎が所長を務めていた、東京工廠製造所を前身としている新中央工業を合併し、ミネベア大森工場とした(後に松井田工場に機能移管)。ニューナンブM60、M360J SAKURA、9mm自動拳銃、9mm機関けん銃、航空機用のボムラック(兵装架)などの軍事向け製品を生産している。

quu.cc→1.『ハウステンボス物語』上之郷利昭 プレジデント社

 1.  『 ハウステンボス物語 』        上之郷利昭   プレジデント社
・ 潮のうず巻く西海橋をくぐって佐世保湾から大村湾に入り、左へ舵を切って進む。すると、豊かな緑に囲まれた海の一角、静かな入江の正面に、忽然と巨大なオランダの町が姿を現す。「ハウステンボス」の町である。
・ 「ハウステンボス」は、オランダのベアトリクス女王が、現在、実際に住んでいる宮殿の名前であり、オランダ語で「森の家」の意味である。
・ ハウステンボスプロジェクトは、敗戦によって、厳しい家庭状況に立たされた一人の聡明な少年が、この美しい自然の中に住む大村湾の人々を何とか豊かに出来ないかと思い続けた夢からスタートしている。
・ 神近義邦は、小学校のころから仕事をして家計を助けた。中学卒業の時、家計のことを考え就職をしようとしたが、母が高校進学を強く進め、働きながら4年で卒業する定時制高校に通うことになる。高校2年のとき、養子に行き神近となる。高校卒業のとき、答辞を読む義邦の姿を見て、母は泣いた。
・ 卒業後、西彼町役場に就職、かたわら土地を借り、父に習った花の栽培を本格的に開始。朝早く起きて出勤前に手入れをし、役場から帰ると日が暮れるまで畑を見回り、日曜祭日、一日も休まず働く。昭和40年の大旱魃のときには、役場から帰って毎晩、懐中電灯を口にくわえ、池から水を運んでは菊に与えた。
 このころ、14万本の菊を栽培。町内の農業後継者の青年たち十数人が弟子入りする。指導に当たっていた稲作の増産が町長の減反政策と対立、西彼町役場を退職。町長選挙戦の対立候補の実質的リーダーとなって、圧勝、その助役となる。
・ 元町長と対立のころ1年間県地方課財政係へ出向。この時、西彼町の55万平方メートルが、東京永田町の料亭「一条」に買占めらていることが判明。ラブホテル等が無秩序に建てられないようにするための取締りの折衝役に、神近が当たる。 乱開発をやめることに同意した「一條」の女將が、その土地の利用を考えるようにと神近に提案。国指定の自然休養村事業事務局の事務局長として、自らの観光果樹園も指定を受け補助を受けることになった神近が、自然休養村に取り込む形で「一條」の土地活用を企画することになる。
・ 「一條」の相談役となり、観光果樹園事業に着手するが、オイルショックで「一條」が経営破綻、果樹園造成の工事費4千万円を神近自身が背負い込むことになる。そこで「一條」の専務取締役として、料亭「一條」の再建に取りかかる。
 月曜から終末まで永田町「一條」の番頭として働きこれを借金の分割返済に当て、終末は長崎へ帰っての観光果樹園の事業に当たる超人的な生活が続く。  「一條」を見事再建。その日々の中で、多くのことを学ぶ。多彩な人々を知り、将来の人脈を培っていった。
・ 「日本には、こんな海がありますか」「ある」と神近は力強く答えた。「私が生まれ育った長崎に大村湾という素晴らしい海がある。この地中海の海に決して負けない」「そんな素晴らしいところなら、この地中海のようにたくさんの人々が訪れて楽しんでいるでしょう」
 電光の如きアイデアが神近の脳裏に閃いた。
 神近義邦が「長崎オランダ村」の計画を発想したのは、1979年夏、彼がミネアグループの不動産部長を兼ねて、社用で初めてヨーロッパを旅行したときのことであった。  時とともにアイデアは神近の頭脳に広がり、興奮が神近の身体を包んでいった。ヨーロッパから東京に向かう飛行機の中で、神近は次々に浮かんでくるアイデアを紙に書きなぐった。アンカレッジまで一睡もしなかったという。これが神近のオランダ村計画の発端である。 
・ 観光果樹園は農林省の自然休養村事業の指定で、農林金融公庫の融資を受けた。西彼町の青年たちと一緒に「有限会社グリンメイク」を設立。6万坪の土地を「一條」から買い取ることになる。
・ 渋沢栄一の孫、正一が「東京農大の息子の主任教授が『伊豆シャボテン公園』を作って成功しているので相談しては。」とアドバイス。この近藤教授の助言と指導で出来上がったのが、動物が檻の中に入っていない動物園「長崎バイオパーク」である。その入口の入場券売り場に、風車小屋を作った。「国道からバイオパークの入口までの広い田圃にチューリップを一面に咲かせたい」、まだ最初の頃、神近はそんなことも言っていた。
・ 生簀料理「松乃井」の経営行き詰まりの相談をうけていたとき、神近は「長崎オランダ村」構想を提案した。  ハウステンボスプロジェクトの母体ともいうべき「長崎オランダ村」は、豊かな自然に恵まれた大村湾を望む、長崎県西彼杵郡西彼村に誕生したテーマパークであった。外観だけからいえば、最初は風車と売店だけが寒村の国道沿いにひっそりと立つドライブインに過ぎなかった。  神近義邦の発想したこのアイデアは見事に的中した。神近は、その資金力からすれば大胆というほかない拡張を進めていった。
・ 「長崎オランダ村」の設計図を描いたのは日本設計社長の池田であった。池田は戦艦大和に従って沖縄特攻に出撃していた。奇跡的に生還した時、その乗って帰った駆逐艦がこの大村湾に入港した。静かに澄んだ大村湾の入江、春の陽光が注ぎ、山桜が咲き乱れていた。その美しい印象は強く胸に焼き付いた。消そうとして消えないこの感動が、金のない神近のアイデアの設計を引き受けさせることになったのかもしれない。
・ 長崎の発展にとって何かをやるようになるのではないか。そのような予感を感じさせるものを神近に感じ、「バイオパーク」のための2億円の銀行融資を実現させたのは、長崎自動車社長、長崎商工会議所会頭の松田であった。  「長崎オランダ村」のスタート時の運転資金2億5千万円の担保にと、個人として全面保証もしてくれた。只、神近もそのとき3億円の生命保険に入った。
・ 池田や松田らの支援と協力を引き出し、オランダ政府、日本有数の企業数十社、長崎県、佐世保市など地方自治体を含めた何万人もの人々を巻き込み、総額5千4百億円の巨大事業「ハウステンボスプロジェクト」にまで発展させる原動力となったもの、それは只々、神近義邦の壮大な夢であった。
・ レンガ作りのオランダの街と建物を再現するために50万坪近い広大な土地に、合計2千万枚にのぼるレンガが使用された。日本で焼いたものもあったが、重要な部分はオランダで焼いて輸入された。  チェックの結果、レンガとレンガの間の接着部分であるメジの幅が本物のハウステンボス宮殿のそれよりも2ミリ広いということであった。4千万円の損失を知りながら、神近は自分の責任においてこれをやり直させた。  日本側は本気だ、これなら支援しても大丈夫、という強い信頼感をオランダ政府側にとりつけたという。
・ ハウステンボスプロジェクトは遊休地となっていた工業団地を、地域活性化のために活用するという趣旨からスタートしたため、「第三セクター」方式を取っている。50万坪近い広大な土地に展開される住宅、ホテル、コテージ、レストラン、美術館、博物館、アミューズメント施設、ショッピングモール、・・。  3千5百人の雇用、年間4百万人と想定される観光客。この巨大な都市づくりが、過疎化に悩んでいた大村湾周辺一帯の活性化を促す大きな起爆剤になること、九州全体の活性化にも貢献することが、今や誰の目にも明らかになっていった。
・ 1986年9月のある夜、高田長崎県知事は神近義邦に電話をかけた。  「神近さん、私は興奮して眠れない。もう一度、あなたの声が聞きたくて電話した」と、知事は神近に言った。  それは持て余していた針尾工業団地を、長崎オランダ村で何とか活用してもらえないだろうかと高田知事が神近に要請していたのに対して、「やってみましょう」と神近が答え、その壮大な計画案を提示した日の夜のことであった。
・ 「何とかやってみましょうと引き受けると、それに取り掛かり、オランダ側の関係者やリゾートの専門家を含めた有識者による15人委員会をつくり、日本工業銀行を説得し、さらに今日ハウステンボス計画に参加している日本のそうそうたる企業を次々と説得し、一つ一つ着実に積み上げて、あのとてつもない計画を実現するところまで持っていったのです。彼はあの事業に賭けています。私も行政の立場から、そして人間として、その彼に賭けているんです」高田知事はそう語っている。
・ 日本設計の池田社長と同様、プロジェクトに入れ込んだ日本郵船の富岡会長も、沖縄特攻の船団に乗っていて触雷し、九死に一生を得ていた。  長崎自動車の松田社長は、その富岡会長と海軍同期の入隊で、フィリピンの激戦から奇跡的生還をした人であた。  又、清水建設の今村社長は、海軍78期の、ハウステンボスのまさにこの地にあった海軍兵学校針尾分校で訓練を受けていた。  日本の将来のために戦場に散っていった人々が、神近義邦という人物になりかわって、生き残った戦友たちを21世紀の日本のために立ち上がるようにと、呼び寄せたのではなかろうか。
・ 「京都は昔、長安の都を模した計画都市であった。1000年の時を経て、京都はもはや長安の模倣ではなく、追随を許さない日本の古都となった。都市はそこに生活する人々が新しい文化を生み出し、熟成させていく。オランダを模した計画都市ハウステンボスも1000年後には、誰もオランダの模倣とは言わない日本の古都となっているであろう」神近はそう言っている。
・ 昭和17年 8月 神近義邦誕生
昭和37年 6月 西彼町役場就職
昭和48年 3月 役場退職、(株)一條に就任
昭和50年 (株)グリンメイク設立
昭和54年 7月 ヨーロッパでハウステンボスのアイデア
昭和54年 長崎バイオパーク(株)設立
昭和57年12月 長崎オランダ村(株)設立
昭和58年 長崎オランダ村オープン
昭和62年 佐世保市ハウステンボス計画委員会設立
昭和63年 ハウステンボス(株)設立
平成2年 2月 ハウステンボス(株)工事開始
平成3年 オランダ村ハウステンボス合併
平成4年 3月 ハウステンボス第一期オープン
平成7年 3月 第二期オープン予定
平成10年 3月 ハウステンボス第三期オープン予定

こんどは生簀料理「松乃井」

HISの澤田秀雄とジャパネットたかたw

wikipedia.org→澤田 秀雄(さわだ ひでお)

「1990年、社名を株式会社エイチ・アイ・エスに変更、パソナの南部靖之、ソフトバンクの孫正義とともにベンチャー三銃士と称された[1]。」w

日経→旅から生まれた挑戦者(5) 旧ビルマで肝炎、生死の境

ビルマで1週間、寝たきりの状態が続いた。

ベッドであおむけになって天井を見つめ続けるか、窓の外の景色を眺めるだけの毎日でした。テレビもラジオもなく、日本語で話せる相手もいません。死への恐怖や孤独、経験したことのない絶望に襲われながら「もっとあれをやっておけばよかった。あそこにも行きたかった」という後悔の念が押し寄せました。

しかし、ここで何とか踏みとどまりました。「もっと世の中のためになる仕事をしなければ」。そう思い直し、残っていた力をふり絞って空港に向かいました。タイ行きの飛行機で出国、バンコクの病院で近代的な治療を受けることができました。これでようやく病状は回復。日本に帰国の途に就いた時には元気な姿に戻っていました。

まんま後藤忠政やんけw

三笠宮寛仁親王殿下→麻生信子w

リチャード・ブランソン(バージングループ)→ネッカー島→エプスタイン島w

え?ハウステンボス・カジノか?w、なんだよ、パソナ島になってしまう淡路島みたいなエプスタイン島構想かよ…

このメンツを見てすぐにどんなビジネスなのかわからなければならない…

徳川幕府と東インド会社の存在次期が微妙に一致していたこと気になっていた。 徳川幕府の国内向けは日光例幣使街道で、海外向けは長崎の出島ビジネスだったのだろ…

【長崎に貿易に来たオランダ人などはキリスト教徒ではありますが、「キリシタン」ではない】w

どこが解読の鍵かと聞かれれば、平戸の貿易で莫大な富を得て、育児院(孤児院)と病院を建てるとこでしょーか?w

ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)

【稲盛財団✕瀬島龍三のカニバリズム・ビジネス】カトリック長崎大司教区の2013年ごろの2億5千万円海外事業投資て東京五輪招致の賄賂だなw

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