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ゴフマン「専門家を信じるのではなく、自分自身で考えて判断せよ」

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ノーベル賞を受賞しまくる日本って「東洋の奇跡」と言うべき存在じゃないか?=中国 2020-08-17 08:12
 中国は宇宙開発やスーパーコンピューターなどの分野で進んでいるが、ノーベル賞受賞者はまだまだ少なく、毎年のように受賞者を輩出している日本について「羨ましい」とする声は多い。中国メディアの百家号はこのほど、「ノーベル賞を多数受賞している日本を真似することはできるか」と題する記事を掲載した。
 記事はまず、ノーベル賞は「科学技術で世界最高峰の賞」であり、「その国の科学技術と人材育成の能力のほどを表す」としたうえで、日本のノーベル賞受賞者の多さを「東洋の奇跡」と称賛。中国も韓国もこれほど発展しているのに受賞者は非常に少なく、アジアで日本は特異な存在だと指摘している。
 日本がこれほど多くの受賞者を輩出している理由について記事は、明確な計画と目標を掲げ、それに向けて投資したことにあったと分析。そのうえで、「投資なら中国にも真似できる」としている。記事によると、日本は欧米以上に科学技術の発展に積極的で、95年以降は基礎研究に力を入れるようになってきたが、中国も国家がより本腰を入れればさらなる投資を期待できるのだという。
 また、ノーベル賞には高等教育も関係していると主張。人材が育成されれば賞も取れるというが、中国は世界大学ランキングで東京大学よりも上位だった清華大学があり、高等教育の質では劣っていないと主張している。ただ、中国では拝金主義が根強く、優秀な人材を研究職に確保するのが難しいとも言われる。「日本を真似して」ノーベル賞の受賞を目指すには、まだほかに足りないものがあるのかもしれない。
(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

「これはうまい。お代わりだ」硫黄島激戦の裏で、日本軍将兵はなぜ“アメリカ人将校の肉”を食べてしまったのか なぜ日本兵は“人肉食”を求めたのか #2 小池 新1時間前
<アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは>より続く
 父島関係で出廷した証人は堀江少佐ら40人。捕虜を斬殺した1人の伊藤喜久二中佐は「I中佐」として証言要旨が「小笠原兵団の最後」に載っている。

「肝を食い、必勝の信念の養成に処すべし」
「硫黄島の上陸前夜、2名の捕虜が届けられた。(立花)少将はこの捕虜に猛然と襲いかかった。真鍮のステッキで胴腹に2つずつ打撃を与え、高級副官H(東木誠治大尉)に命じ、司令部前の松の木を背にして針金で首から足まで縛らせ、『この畜生めらが戦友を殺したのだ、見せしめに殴れ、蹴れ、そして憎め』とどなり散らした」「2、3日、捕虜は生きていた。Tは将校の会食で試し切りの希望者はないか、剣のすごみを披露するチャンスだと言った。副官のH大尉が『中佐殿、あなたは剣豪です。閣下の命令です』と言うので、不承不承このIが切ることになった。第307大隊の地区で大勢監視の前で切ったが、自分としてはいい気持ちはしなかった」。

立花芳夫中将 「父島人肉事件」より この記事の画像(6枚)

 伊藤中佐は高級将校の養成機関である陸軍士官学校(陸士)で東条英機元首相と同期の17期。軍人としては高齢だったが召集されていた。

 立花中将や的場少佐の人格に関する証言も。立花中将の当番兵だった元上等兵は「日頃、銭形平次の捕物帳を読んでいた。酒飲みで、よくメモを書き、主計(会計などを取り扱った軍人)のところへ酒買いに行かされた。一升ビン2本をもらってくると自室に置き、飲んだ分量をよく知っており、少しでも失敬するわけにいかなかった。われわれ兵隊を卑しい者と見ていばりくさり、思いやりなどさらさらなかった。私は彼から下劣な成り上がり者という感じを受けた」(同書)。

 それ以上に評価が低かったのは的場少佐。捕虜を殴打し、その後刺殺させた部下の中島昇・大尉も「小笠原兵団の最後」に「N大尉」として証言が載っている。「少佐は六尺近い大男で剣道が強く、酒乱で碁が上手であった。兵隊に小豆を与え、酒は俺が飲むということで、兵隊の恨みをかった。また兵の前で将校や下士官を殴り倒すこともしばしばあった。捕虜はこれを将兵の前でぶった斬り、その肝を食い、必勝の信念の養成に処すべしという方針を持っていた。中隊長としてこれにさからうことは不可能であった。私が捕らえた捕虜はけがをしており、放っておいても死ぬ運命にあった。私は確かに鞭(むち)で殴り殺したが、それは大隊長の方針に沿ったものである」。中島大尉も応召の軍人だった。

あまりの衝撃にアメリカでは「記事の掲載が禁止」

「立花中将の当番兵はほかにも2人いたが、彼らが口をそろえて人肉を供した酒宴の様子を語り、特に中将が『これはうまい。お代わりだ』と要求したくだりになると、法廷は水を打ったようにシーンとしてしまった」(「父島人肉事件」)。記事によると、凄惨な証言が続き、米軍新聞「グアム・ニュース」は「カニバリズム」(人肉喫食)という大きな見出しを付けて連日のように裁判の経過を報道した。「20世紀の今日でも日本人は人肉を食う」というような見出しの下に被告の写真が載っていた。

次のページ「パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した」

 見るに堪えない記事だったが、なぜか3日続いた後、ぱったり出なくなった。不思議に思っていると、記者がやってきて「大変なことになりましたよ。アメリカ本土の母親たちが連名で大統領に訴えたのです。『息子は名誉の戦死をしたものと信じていたが、敵に食べられてしまったとは聞くに堪えません』というのです。この母親たちの悲痛な訴えで、大統領が『カニバリズム』関係の記事の掲載を禁止したのです」と説明したという。

「パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した」

「父島人肉事件の封印を解く」によれば、立花中将は全てを否定。殺害にも人肉食にも関与しておらず、何も知らなかったと主張した。態度は最後まで毅然としていたという。的場少佐は最初は部下がやったことだと主張したが、やがて全てを認め、宴会の様子なども詳しく供述した。

 それに対し、吉井大佐は「全て自分がやらせた」と認めた。「小笠原兵団の最後」には、疑いをかけられてグアムに連行された海軍父島特別根拠地隊参謀の海軍少佐に漏らした「Y大佐」(吉井大佐)の言葉が載っている。「君は心配ないよ。近くここから出られると思う。森司令官、篠田防備参謀に、罪を背負うのは一人でたくさんだから、全部俺に(罪を)着せるようにと伝えてくれたまえ」。吉井大佐は法廷でも「無差別爆撃をする米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した。命令は全て自分が出した」と主張して非を認めなかったと秦郁彦「人肉事件の父島から生還したブッシュ」(「昭和史の謎を追う」所収)は述べている。

 同論文は、アメリカのジョージ・ブッシュ第41代大統領(パパ・ブッシュ)が1944年9月、爆撃機のパイロットとして父島攻撃に参加。撃墜されて海上に落ちたが、潜水艦に救助されたことを書いている。

©iStock.com 「猟奇の感を免れないが、法的にはいわゆる“死体毀損・侮辱”」

 同論文によれば、グアム裁判の被告は、遅れて起訴された寺木見習医官らを含めて27人。うち死刑判決は陸軍が立花中将ら4人、海軍は吉井大佐1人だった。森中将は終身刑だったが、前任地のオランダ領インドネシア(当時)での裁判で捕虜虐待で死刑に、ほかに終身刑が陸軍4人、有期刑が陸軍10人、海軍5人。無罪は陸軍2人だけだった。

 ただ、グアム裁判は、責任者だったマーフィーというアメリカ海軍大佐の意向で、当時新たに作られた裁判規定をできるだけ避け、従来の海軍軍事裁判のルールや手続きを尊重。日本人被告に対してもアメリカ人被告と同様の権利を与え、「海軍独自の公平な裁判を行いたいという態度が見てとれた」と岩川隆「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」は一定の評価をしている。それは法の適用にも表れており、「人肉嗜食という行為は一般的には猟奇の感を免れないが、法的にはいわゆる“死体毀損・侮辱”という種類のもので、グアム法廷の長であるマーフィー大佐も特にこれを訴追しなかった。まがりなりにも、感情と法は別、という態度がみてとれた」(同書)という。

 こうして未曽有といっていい人肉食裁判は一応終わったが、それにしても、それから75年後の時代を生きる私たちにとって、人肉食はもちろん、捕虜虐待・殺害という行為さえ、にわかには理解し難い。どうしてそんなことができたのだろうか――。戦後生まれの筆者にとっても難問だが、1つずつ要因を検討してみよう。

次のページ【東条首相が発した「戦陣訓」の裏返しの悲劇だった】

東条首相が発した「戦陣訓」の裏返しの悲劇だった

「明治維新以降、日本軍は、日本の国際的地位向上の見地から国際法と欧米での戦争慣習の受容に努めた。1899年の第1回ハーグ平和会議で調印された『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』も、日本は翌年直ちにこれを批准した」と小田部雄次・林博史・山田朗「キーワード日本の戦争犯罪」は説明する。「日本は、日露戦争や第1次世界大戦では、ロシア人捕虜やドイツ人捕虜を人道的に扱った」「ただ一方で、中国人捕虜については、日清戦争の時に旅順で大量虐殺するなど、一貫して過酷な扱いをしている。つまり日本は、不平等条約を撤廃し、大国の仲間入りをするために、欧米に対しては国際法を守る姿勢を見せたのである。しかし、大国になると、その姿勢を変えてしまった」(同書)

 1929年、「俘虜の待遇に関するジュネーブ条約」が調印され、日本政府も調印したが、軍部が「帝国軍人の観念よりすれば、俘虜たることは予期せざるもの」と強硬に反対したため、批准できなかった。「国粋主義の台頭を背景として、英米的価値観の国際法の有効性と捕虜になること自体を認めない傾向が、昭和初頭より強まった」(同書)。1941年1月、東条英機陸相名で出された「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という一節は、その考え方の帰結であり、大戦中の多くの「玉砕」や民間人の集団自決などの悲劇を生み出す原因となった、と同書は言う。

開戦を国民に告げる東條英機 ©共同通信社

 父島事件で死刑となった中島昇・大尉はグアム島での裁判中、堀江少佐にぼろぼろ涙を流しながらこう訴えたという。

せめて終戦前に戦死したかったです。何とかさかのぼって戦死扱いにしていただけないでしょうか。家族が聞くとどんなに悲しむか分かりません。私だけが捕虜に残虐だったのでしょうか。捕虜になると国賊扱いする日本国家の在り方が外国捕虜の残虐へと発展したのではないでしょうか。捕虜の虐待は日本民族全体の責任なのですから、個人に罪をかぶせるのは間違っていませんか。私は死んでも死に切れません。私は国家を恨んで死んでいきます

「小笠原兵団の最後」より

 確かに、捕虜になることを絶対に許さないとする精神風土が、捕虜に対する人道的な処遇を許さなくなるという流れは一面で分からなくはない。しかし、人肉食はまたそれとは明らかに違う、一線を画した問題ではないか。

「必要に迫られてではなく、自ら好んでこの恐ろしい慣行にふけった」

「人肉事件の父島から生還したブッシュ」は「カニバリズムが連合軍の法廷で裁かれたのは父島事件だけであり、それも飢餓という極限状況下の事件でなかっただけに人々を驚かせた」と指摘。東京裁判担当だった朝日記者・野村正男「平和宣言第一章 東京裁判おぼえがき」は、父島事件を知った衝撃からか、こう書いている。

「太平洋戦争の末期になって、日本の陸海軍は人間の肉を食べるほどまでに落ち込み、不法に殺害した連合軍捕虜の体の一部を食べた。ときには、この敵の肉を食することは、将校宿舎における祝宴のようなものとして行われた。陸軍の将官や海軍の少将の階級を持つ将校でさえもこれに加わった。殺害された捕虜の肉、またはそれによって作られたスープが日本の下士官兵の食事に出された。証拠によれば、この人肉嗜食は、ほかに食物がある際に行われたことが示されている。すなわち、このような場合には、必要に迫られてではなく、自ら好んでこの恐ろしい慣行にふけったのである」。

 まさに尋常ではない。そこには何があるのか。

次のページ【みじめな敗戦と、哀れな肉親の死への復讐心】

みじめな敗戦と、哀れな肉親の死への復讐心

 まず考えられるのは、戦争の激化に伴う敵に対する敵愾心と敵兵に対する憎悪の高まりだ。土屋公献・見習士官は、ヴォーン少尉が殺害された日の夜、当直将校として徹夜の勤務をしていたとき、こんなことがあったと「弁護士魂」に記録している。

「深夜に2人ほどシャベルを持った兵隊を、警備の兵隊が捕まえ連れてきた。『どうしたんだ』と問いただすと、捕虜を埋めた穴から遺体を掘り出して、その肉を食おうとしたという。その兵たちの言い分は、『自分の兄貴がガダルカナルで無残にアメリカに殺された。飢え死にしそうになって倒れているのを戦車でひき殺された……非常にかわいそうな死に方をした。その敵討ちをするんだ。そのためには捕虜の肉でも食らってやる』と考えて掘り出そうとしたのだと、そういうせりふだった。それは表向きで、本当は腹が減っていたのだと思う」。実際にもそうだったかもしれないが、現実に父島には相当の食糧が備蓄されていたことが後で分かったと土屋氏は書いている。

©iStock.com

 彼は実際に人肉食が行われていたことを知らなかったようだ。それでも、みじめな敗戦と哀れな肉親の死への復讐心が人肉食の動機の一端になっていたことは否定できない。国内では全国の街が空襲の被害に遭っていた。父島から約270キロ離れた硫黄島では友軍が玉砕の岐路に立たされていた。焦りもあっただろう。

「どうせ死ぬのだから、何をやってもいい」

 次に挙げられるのは、土屋氏がそのことを魚雷艇隊の司令(隊長)に報告したときの反応に表れた感情だ。「『食わせてやればよかったじゃないか』という、すごい返事が返ってきた。それほど戦地は殺伐として、誰もが生きて帰れないと思い込んでいて、何をやってもしようがないという心境に陥っていた。腹に入るものなら何でも食べてしまえという、そういうすさまじい境遇の中で、これからいつまで生き残っていられるのか、アメリカが上陸してきたらどうなるのかということを常に考えていた」(同書)。

 どうせ死ぬのだから、何をやってもいい。どうなっても構わないという自暴自棄に近い感情が兵士の心に広がっていたのだろう。ところが、硫黄島が落ちると、アメリカ軍は沖縄に向かい「父島の軍事的価値はほとんどなくなったので」「味方からも敵からも見捨てられたような存在になってしまった」(同書)。それもまた、無力感と自暴自棄の感情を増幅させたに違いない。

 加えて大きかったのは、日本軍特有のエリートと非エリートの分断と対立だったのではないか。

次のページ【エリート軍人に対する怨嗟や羨望】

エリート軍人に対する怨嗟や羨望

 堀江芳孝少佐は「酒席に出ないため『悲観参謀』『腰抜け参謀』『陸大出は戦争に弱い』などの罵詈讒謗に耐えなければならなかった」と「父島人肉事件」に書いている。そこには、陸士、陸大(陸軍大学校)卒という当時のエリート軍人に対する非エリート層からの怨嗟や羨望があった。

 実は父島の陸軍トップである立花中将も、人肉食を主導した的場少佐も陸士は出ているが、陸大は出ていない。硫黄島で対面した際、栗林中将は堀江少佐に「父島を立花少将あたりに任せるわけにはいかない」と語っている(同書)。栗林中将も堀江少佐も陸士・陸大卒。そこにエリート同士の自負があったことは間違いない。

 さらにいえば、陸士の卒業年次は栗林中将の26期に対して立花中将は25期。騎兵専攻の栗林中将はアメリカ駐在や陸軍省馬政課長などのポストを歴任するかたわら、軍歌の歌詞の公募で「愛馬進軍歌」「暁に祈る」の〝生みの親〟になるなど華々しく活躍したのに対し、歩兵科の立花中将にはこれといって目立つ経歴はない。陸軍の序列ではその1年後輩の下にいることに鬱憤がなかったとは思えない。

「七三一」創始者や「作戦の神様」に憧れて

 さらに決定的だったのは、個人のキャラクターだろう。この事件の登場人物には「酒乱」が多いが、特に的場少佐だ。堀江少佐は「父島人肉事件」で書いている。

「(昭和)19(1944)年8月半ばに、シンガポール攻略戦の大隊長で軍医学校の戦術教官に転じていた的場少佐が308大隊長として着任していた。すぐに(立花)旅団長と飲み仲間となり、『おやじ』『おぬし』の呼び名で、この酒乱同士は部下の悪口もよそに朝から晩まで酒宴また酒宴の連続。的場少佐は辻(政信)参謀を神様のように崇拝し、『敵の捕虜はぶった切って食え』とどなった。辻のやったマレー華僑3000名の殺害を礼賛し、シンガポール入場の歌を高らかに歌う」。中島昇・大尉もこう証言している。「Mはまた軍医学校で戦術教官をやり、細菌で捕虜をモルモット代わりに平気で殺すI軍医中将(細菌戦部隊「七三一」の創始者で初代部隊長の石井四郎・軍医中将)の影響を受けていたと思われる」

辻政信 ©共同通信社

 辻政信・陸軍大佐(最終階級)は「昭和の35大事件」の「ノモンハンの敗戦」で取り上げたが、大向こうをうならせるような派手な言動と強気一辺倒の作戦指導で知られた。彼を「作戦の神様」と呼ばせたのは太平洋戦争開戦直後のマレー電撃作戦だった。シンガポール陥落の際は、大量の反日華僑粛清を企画、実現したとされる。その言動を間近に見ていて憧れ、自分も同じような言動を実践したということだろうか。そこに「七三一」の「DNA」までも紛れ込んでいたとは……。

 さらに、辻には父島事件ともつながるような話題がある。

次のページ【辻が“妙薬”として飲ませたのは「人間の肝」?】

辻が“妙薬”として飲ませたのは「人間の肝」?

 杉森久英「辻政信」には、辻が「妙薬」を持っていて、もらった人間もその効果を認めていたという記述が。

「美山(要蔵中佐)は昭和17年3月、シンガポール攻略の直後、大本営から南方に連絡で派遣されたが、(現ミャンマーの)ラングーン(現ヤンゴン)の手前のチャイトに一晩露営したところ、盲腸炎か何かだったとみえて猛烈な腹痛を覚え、下痢と嘔吐を繰り返した。ふらふらになってシンガポールに着き、辻からもらった妙薬を飲んだところ、たちまち元気になった。

 昭和18年、同盟通信(共同通信と時事通信の前身)特派員として(現パプアニューギニアの)ラバウルにあった小野田政は、ある日、記者会見でガダルカナルから撤退してきたばかりの辻参謀から前線の様子を詳しく聞いた。その時、辻は印籠のように腰に下げている、コチコチに干からびた黒い物を見せて『これはアメリカ兵の肝だ。臥薪嘗胆という言葉があるが、僕はこれをなめながら生き延びてきた。これは大変に栄養があって、少しくらい絶食しても、これさえなめていれば元気を保っていられる』と言った。それはちょっと見ると、原住民の作るヤシ細工かと思われるような黒くて小さなものであった。辻が妙薬として人にのませたものも人間の肝だったといわれる。ある人は肝と知ってのみ、ある人は知らずにのんだ。

 いずれにしろ、辻の妙薬はよく効くという評判が立って、辻製薬という戯称は有名になった」。

 同書は「人間の肝をなめなめ戦闘を指揮するくらいのことはやったかもしれない」としつつ、真偽は不明とし、「彼のファンの間では痛快な人物という評判がいよいよ高くなったが、彼を憎む男たちの間では、何か不気味な、陰惨な、妖怪じみた男のような印象を濃くしていったのである」と述べている。

「人に後ろ指さされたくない。仲間外れになりたくない」と思う集団心理

 さらに「辻政信」は書く。「戦争中の日本人にとって米英は鬼畜であり醜虜(醜い虜囚)であって、その肝や肉を食うことが人道上の大罪だなんてとんでもないことであった。おめおめと生き恥さらして捕虜となった外人将兵は、その臆病と卑怯未練をさんざん笑ってやるべきであり、それを『おかわいそうに』と呼ぶなんて言語道断であった。そういう空気の中では、白人の肉一片をさえ口にできぬ男はよくよくの臆病者であり、それを試食することを提案した辻政信は最も古武士的な、勇敢なる日本人の典型であった」

 ここで書かれているお「おかわいそうに」とは、太平洋戦争前期、アメリカ人捕虜が列を組んで市街地を通ったのを、ある上流婦人が見て「おかわいそうに」と口走ったことから、大本営報道部の中佐が放送で 「敵に同情するのは心の中にアメリカが住んでいるから」と非難。同意する世論が巻き起こったという出来事(内海愛子「日本軍の捕虜政策」)。

 戦時中はそうした人道的な思考がよってたかって袋だたきにされた時代だった。人肉食をめぐる問題の核心もこのあたりにあるのではないか。父島事件の経緯を見ても、深刻な飢餓状態ではなく、人間の肉を食べなければならない必然性はなかった。将兵にあったのは、敵に対する強烈な敵愾心と「生きては帰れない」絶望と不安、それらに追い詰められた中で「勇気がない」「臆病者」と言われることへの強い恐怖心だった。人肉食は「肝試し」のようなものだったのかもしれない。

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 誰もが「人に後ろ指さされたくない。仲間外れになりたくない」と思う集団心理。そう考えると、コロナ禍で「自粛」の同調圧力にあえぐいまの日本社会にも似たような問題がありそうだ。もちろん「捕虜虐待、殺害、人肉食」は平和な時代の人間にとっては想像を絶する事態だが、それを取り巻く事情をよくよく見れば、75年後に生きる私たちにとっても全く無縁ではないことのように思えてくる。

【参考文献】
▽国士館大学法学部比較法制研究所監修「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」 原書房 2017年
▽「日本近現代史辞典」 東洋経済新報社 1978年
▽防衛庁防衛研修所戦史室編著「戦史叢書 本土方面海軍作戦」 朝雲新聞社 1975年
▽土屋公献「弁護士魂」 現代人文社 2008年
▽岩川隆「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」 講談社 1995年
▽小田部雄次・林博史・山田朗「キーワード日本の戦争犯罪」 雄山閣 1995年
▽野村正男「平和宣言第一章 東京裁判おぼえがき」 日南書房 1949年
▽杉森久英「辻政信」 文藝春秋新社 1963年
▽内海愛子「日本軍の捕虜政策」 青木書店 2005年


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フィリピン戦 戦場の「人肉食」 ミンダナオ島編

フィリピン戦
(番外) 戦場の「人肉食」 ―ミンダナオ島編―
 「戦場の「人肉食」 ルソン島編」に続き、「ミンダナオ島編」をお届けします。
 念のため、「ルソン島編」で掲げた注意書きを、こちらでも再掲しておきます。 ※「人肉食」などという猟奇的な事件が果たして本当にあったのか、軽い好奇心から調べ始めたのですが、予想を超える「気持ちの悪さ」にはいささか辟易しました。折角調べましたのでまとめてはみましたが、以下の記述は、私自身気分が悪くなるくらい、大変生々しいものです。閲覧には十分ご注意ください。

1  荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』

 まずは、荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』です。この本には自民党の大物政治家、渡辺美智雄氏(元「みんなの党」党首、渡辺喜美氏の父)が序文を寄せており、荻原氏が地元の名士であったことを伺わせます。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
発刊に寄せて
衆議院議員 渡辺美智雄
 この度、太平洋戦争(第二次世界大戦)の比島戦線における密林敗走実録「髑髏の証言」が、四十年ぶりで出版の運びとなったことは、誠に欣快の極みであり、衷心より祝意を表します。
 著者・荻原長一氏は、旧日本陸軍砲兵隊の軍曹としてミンダナオ島の対米攻防戦に参戦された。そのすさまじい死闘を経て、敗戦も知らずに部下戦友と共に人跡未踏のジャングル内を何ヵ月も彷徨。
 友軍兵の白骨化した死骸群の中、"共食い"など人間として極限を超えた飢餓地獄を、強靭な理性・忍耐力と創意工夫で見事に乗り越えられた。
 中隊指揮班の功績係という立場にいた著者の凡張面さから、その折節の実証をスケッチ付きで克明に記録。
 それを米軍の捕虜収容所内でまとめあげ脱稿、復員時に苦心して持ち帰り、今日まで温存されたという。
 それだけに、自分をさらけ出したその内容は、鬼気迫る当時を生々しく再現して小説よりも奇なる実録(ドキュメント)の迫真力十分。思わず引き込まれて一気に読ませられるものがあります。
 資料価値も高いと思われます。

 荻原氏は、1944年6月に宇都宮市の砲兵連隊に入隊し、マニラで独立混成第54旅団砲兵大隊に編入されました。その後ミンダナオ島のザンボアンガ半島の守備にあたり、1947年1月に帰国しています。その間、氏は、何回か「人肉食」を見聞しています。
 まずは、山中をさまよううちに再会した、荻原氏氏と同じ「中島部隊」の、「N分隊」の話です。分隊長の「N伍長」は、まだ生きている「海軍」の兵士を、拳銃で殺して肉を食ったことを告白します。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
 「実は、二十日ほど前にも一人……。海軍五中隊の畑(北上の際同隊が最初に発見し独占していた古い畑)から少し南下した所で、肉が欲しくてどうにも腹の虫が承知しやがらねえんで、一緒に行動していた海軍の兵隊を、夜半にやりましたがね」
 「一体何でやったんだ。軍刀でか」
 「いや、この拳銃すよ。眠っているところを頭に銃を当ててやりゃ、一発でいっちゃうやね」
 そう言って、後ろに掛けてあった十四年式の拳銃を指した。そこに拳銃があるのに今初めて気がついた。
 私たちは、立ったままの姿勢で身動き一つ出来ず、ヒザがガタガタするのを力一杯踏み抑えようと思ったが、その力も出なかった。私は、嫌悪と脅迫感をまともに感じながら、顔から血の引くのを懸命に耐えた。
 彼はむしろ得意気に、さらに続けた。
 「最初はやっばり、腕や大腿部をバラして、良い所を乾燥肉(薫製)にして取って置く。まず臓物から食っていくんすが、肝臓なんざァ特にわッしの大好物でさァ。腸も小ちゃく切ってよく煮ると、シコシコして椎茸みてェで何ともいえねェ昧だね」
〝もう沢山だ、やめてくれ! お前たちはなんという事をするんだ″
 私はそう怒鳴ろうとしたが、ツバが乾いてロに出てこなかった。
 「それから、頭はこの軍刀でバーンと割って、中から脳味噌をグイッと引っつかんで、ペロッと飯盒に入れるんだが、随分あるもんすね。これに七、八分目ぐらいはあっかなァ」
 そう言いながら、傍らにあった飯盒に指で線を引く格好をした。(P232-P233)

 その夜、「N分隊」と行動をともにしている「I上等兵」が氏の宿舎にやってきます。彼は、「殺害」と「死体処理(携帯肉製造)」の作業を強制されていたようです。
 以下、「I上等兵」の証言です。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
 部隊解散の後、N分隊に所属した兵隊は絶えず彼らの体の一部分のように隷従させられて離れる事も出来なかった。深いジャングルを半月余り右往左往したあげく、食糧が全く尽きてからは、次第に病人が出始めた。
 飢餓患者が出れば出るほど分隊の足手まといになった。歩行不能に陥ると、順次それら患者の寝込みをうかがい射殺した。射殺の担当はほとんどK兵長だったが、その解体にはさすがに皆手を下さず、その言語に絶する非道な任をIが強要された。
 頸を切断し、腕や脚を胴から切り離し、臓器を取り出して洗ったりの作業を強引に命ぜられた。もしこれを拒むと、何も食べさせてもらえぬばかりか、彼らの刃が自分に向けられるのは明らかであった。

 こうして、多くの携帯肉を作っては食い続け、それが無くなると、また次の患者が犠牲にされていった。(P235)
 「I上等兵」によれば、実際には殺されたのは「海軍の兵隊」ではなく、自分の部下たちであったようです。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
 N伍長が、海軍の兵隊などと言ったのは真赤なウソで、手がけたのは内地出発以来の最初から、同じ自分の分隊に配属されていた己の部下であった。それを平然と四人も殺していたのだ。
 その被害者はS上等兵、G上等兵、W一等兵とO一等兵と明確に氏名をあげた。話は終わった。(P236)


 さて次は、「食人」現場の目撃談です。荻原氏は、山の中で、「何やら食べている」最中の、四人の兵隊と出会います。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
 注意深く近寄ると、四人の兵隊が腰を下ろし、談笑しながら、何やら食べている最中だった。彼らは外敵に対し、ほとんど注意している様子はなかった。彼らを驚かして反射的な攻撃を受けないように、十分考えながら努めて静かに「こんにちは……」と声をかけてみた。(P239)
 ところが、彼らの驚きぶりは想像以上であった。鋭い視線が一斉に私の方に注がれた。うち一人は、咄嵯に傍らにあった銃を握った。(P240)
 四人とも小柄で何ヵ月も洗面すらしたことのないような黒い顔。目だけギラギラ輝かせながら「うわあ、驚いた」と、一人の太い声がした。私はもう一度改めて「こんにちは」と言い直した。
 すると一人が「こんにちは、あんたは何部隊ですか」と問い返してきた。
 「砲兵隊の中村部隊ですが、あなた方は?」
 「森部隊す」(P240)

 そして荻原氏は、彼らから「肉」を勧められます。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
 「ところで、あんた方は糧秣の方はどうすか。わしらはもうイモは二本ずつしかないし、因ってるんす。でも、肉はこうして幾らか残ってるんすけどね」
 肉のあることは、初めから食べているのが見え、わかっていた。私たちにとって、肉は一ヵ月前に、カラパオを食べたのが最後。あの特有の歯ごたえと口腔内に広がる脂肪性の昧が、舌の周辺によみがえる気がした。
 「いやあ、われわれはまだひどいね。惨めなもんです。イモが少しあるだけで、とても肉なんぞ拝みたくても無いですよ」
 彼らの座っている中央には、タケノコの皮みたいに丸くなったカラパオの皮と、焼いた骨が飯缶(軍隊で使う米飯容器)の中に入れてあった。私の視線は激しい食欲に燃えていた。
 「どうすか、こんなのでよかったら、一つ噛りませんか」と言って、一切れの肉片を差し出した。それは一見皮を焼いたもので、真っ黒く縮んで丸くなっていた。彼らの温かい好意に感謝して、早速喜んで押しいただくことにした。(P240)

 しかし「肉片」を口に入れる直前、荻原氏はその「正体」を告げられます。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
 折角貴重品を分けてもらった以上、食べなければ済まない。怖いものをそっと隠すような仕草で、歯と歯の間にいやいや挟もうとした時、誰かの声がした。
 「それはカラパオじゃないすよ」
 「ほう……何ですか。馬ですか」
 「……」
 「台湾工すよ」
 「えーっ、あっあっ、そうすか」
 私は反射的に口を開いて手を引いた。
 「やあどうも、いろいろと済みません。いよいよ道もダメなら明るい中に引っ返さなければならんので、一足先にご免」
 辻褄の合わぬ挨拶だったが、早々に引き返そうとした。すると「そうすか。わしらも四人じゃ寂しいから、一緒に連れて行ってくれませんか」と言い出した。
 私は、そこに佇んで彼らを待つのは一刻も耐えられない気がした。
「はあ、下で皆と一緒に待ってますから」と言い残して急いで立ち去り、彼らの目の届かない所まで来てから、先程の〝台湾出身の徴用工員〟の体の一部分なるものを、斜面を走りながら力一杯遠くへ投げ捨てた。(P241)

 何と「肉」の正体は、徴用された台湾人であったわけです。
 氏の直接体験の話はここまでで、以降、いくつかの「聞いた話」が紹介されます。いずれも生々しい「体験談」ですが、あまりに長くなりますので、こちらでは省略します。

2  住民を殺し、その肉を食う
 さてミンダナオ島では、日本兵が住民を殺して、その肉を食う、という信じがたい事件が起こっています。それも被害者は数十人にも及び、かなり組織的であったことは間違いありません。
 さらにこの事件の特異性を際立てるのが、事件が起こったのは終戦後、1945年10月頃からの1946年にかけてのことであった、という事実です。
 まず、毎日新聞の記事を紹介しましょう。
1993.10.7付『毎日新聞』朝刊 6面
日本軍敗残兵の比住民虐殺 補償、謝罪求める声 次々
合同調査団 心の傷、いまも深く       遺族60人から聞き取り
 第二次世界大戦終結後、フィリピン・ミンダナオ島北部のキタングラン山ろくで起きた日本軍敗残兵による住民虐殺・人肉食事件が戦後四十八年を経てクローズアップされている。日比両国の弁護士やジャーナリストから成る調査団がこのほど現地のスミラオで、被害者の遺族ら約六十人から聞き取り調査を実施したが、ショッキングの証言の連続に、調査団は息をのんだ。
クリセンシア・アリンポグさん(六八)、ホビタ・ヘロカンさん(七〇)姉妹
「一九四六年十月、スミラオ町の自宅に五人の敗残兵がやってきた。食物が屋内にないことがわかると、敗残兵は父親の首を切り、私たちの目の前で肉をたべ始めた」
カルメリノ・マハヤオ氏(五七)
「四六年十月、インパスゴン町の自宅に敗残兵七人が押し入り、まず兄を食べた。母親と妹は連行され、行方不明になったが、のちに脳のない頭部だけが見つかった。私は生き延びた。やせていたので、食べる気がしなかったようだ」
 四七年に日本の敗残兵三十七人を捕らえた地元の元陸軍大尉、アレハンドロ・サレ氏(七四)も証言。「この地域には野生のシカもいたし、果物も豊富にあった。なぜ人を食べたのか疑問を感じた」と述べ、ニューギニア戦線のような極限状態下の人肉食でないことを強調した。
 被害家族は、自給自足に近い生活を営む先住のヒガノオン族。聞き取り調査を実施したイスラエル・ダマスコ弁護士の話では、犠牲者は約八十人。アニミズム(精霊崇拝)信仰の住民は、体がバラバラにされた犠牲者の魂はいつまでも安らかになれず、悪霊が親族に取りついて病気や災いをもたらすと信じて疑わない。遺族の間には、加害者を現地に招いて鎮魂のための伝統儀式を実施すべきだとの意見もある。
 この事件は、マニラの軍事法廷で裁かれ、敗残兵十四人に死刑や終身刑を宣言。だが四八年、キリノ大統領(当時)の恩赦で全員、日本に帰国、放免された。現地調査を行った西田研志弁護士(東京弁護士会)の話では、うち七人は健在で、現地での謝罪表明を申し出ている人もいるという。
 日比の弁護士団は近く日本政府に遺族の要望を伝えるが「全く無抵抗の住民に対する特に悪質な事件」とし、政府の対応次第では従軍慰安婦同様、補償請求訴訟を起こすことも検討している。
 フィリピン人弁護団の中心人物、ロメオ・カプロン弁護士(五八)は、「遺族の証言はマニラの軍事裁判記録と合致しており、信頼できる。人道に対する罪として国連人権委員会に訴えたい」と述べ、今月二十八日から京都で開かれる日弁連人権大会にも出席して、この問題をアピールする。


 この事件は、 辺見庸『もの食う人びと』でも紹介されています。
 辺見庸は、早稲田大学文学部卒、共同通信社勤務を経て、現在は作家・ジャーナリストとして活躍しています。1991年には小説『自動起床装置』で芥川賞を受賞しています。
 『もの食う人びと』は、「食」を媒介に、チェルノブイリ村、ソマリアの難民キャンプ、アフリカのエイズ部落等を、美しくも哀しい文体で淡々と描いた名ルポルタージュです。(のち講談社ノンフィクション賞・JTB紀行文学賞を受賞)
 この書にあって、「ミンダナオ島の食の悲劇」と題する章は、「食」は「食」でも、「人肉食」というおぞましいテーマを扱っており、いささか異彩を放ちます。
 なおここに出てくる「老人」は、先の毎日新聞記事にも顔を出す、アレハンドロ・サレ氏です。
辺見庸『もの食う人びと』
 私は三度も転んだ。老人は一度しか転ばなかった。抗日ゲリラ戦当時の山歩きと退役後の農作業で足腰が鍛えられている。
 夫人はタフなこの老人を時々おどけて「タイソン」と呼ぶのだという。マイク・タイソンのタイソンだ。私がこけるたびに、"タイソン"は、はっはっはっと笑う。
 泥だらけの私をしりめに、老人が野の草を引き抜きはじめた。
 アザミみたいな花をつけた草。ドゥヤンドゥヤンというのだそうだ。
「連中(残留日本兵)はこの草とあの肉をいっしょに煮とったよ」
 言いながらドゥヤンドゥヤンの花をむしっている。泥道に、血のように鮮やかな朱色の点が散らばった。
 茎を私はかじってみた。
 最初にヨモギに似た淡い香り。次に強烈な青臭さで、つばきがどっと湧いてきた。
 におい消しに使ったのかなと私は思った。(P46)
 途中に掘っ立て小屋があった。
「ここからも農民が連れていかれた」
 老人がつぶやく。
 ふもとのインタバス村まで私を乗せ、そのまま同行してきたトラック運転手が「行く先は皆連中の鍋のなかだったよ」と冗談でなく言った。

辺見庸『もの食う人びと』
 ふもとのインタバス村にたどりついたら、村人が六、七人、私を取り囲み、キタンラド山になぜ登ったか問うてきた。
 私はわけを話した。残留日本兵の「食」に少し触れた。
 その時に村人が示した反応を、どのように形容すればいいのだろう。疲労の果てに夢を見ているのかと私は思った。
 村人たちは口々に言ったのだ。
「母も妹も食われました」
「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」
「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」
 「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち十個も並んだ。
 村民たちは泣き叫んではいない。声を荒らげてもいない。押し殺した静かな声だった。なのにメモ帳が「食われた」という激しい言葉で黒く埋まっていくのが不思議だった。老人は、戸惑う私を無言でじっと見つめていた。(P52-P53)

辺見庸『もの食う人びと』
 四九年の戦争犯罪裁判(マニラ)の証言者でもある農民のカルメリノ・マハヤオが、村人の声をまとめた。四六年から四七年はじめにかけて、この村とその周辺だけで三十八人が残留日本兵に殺され、その多くが食べられた。頭部など残骸や食事現場の目撃証言で事実は明白になっている。しかし日本側は一度として調査団を派遣してきたこともない。
 マハヤオは最後に言った。
「でも、忘れないでくださいよ。きちんと伝えてください」
 じつは、事件の概要は九二年秋、共同通信マニラ支局により報じられている。しかし、四七年以降の残留日本兵への尋問当時から、現代史ではきわめてまれな兵士による「組織的食人行為」として、連合軍司法関係者を仰天させたこの事件の全貌は、日本ではほとんど明らかにされていない。
 なぜだろう、と私は思う。
 事実を秘匿する力がどこかで動いたのだろうか。そうだとしたら、この事件がとても説明がつかないはど深く「食のタブー」を犯していることへの、名状しがたい嫌悪が下地になっていたのではないか。
 戦争を背景にした一つの過誤として、もう忘れたほうがいい。そんな意識もどこかで働いたためかもしれない。だが、私のすぐ目の前には、肉親が「食われた」ことを昨日のことのように語る遺族たちがいる。「食った」歴史さえ知らず、あるいはひたすら忘れたがっている日本との、気の遠くなるような距離。私はただ沈黙するしかなかった。(P53-P54)

 この事件について詳細な取材を行い、一冊の本にまとめたのが、永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』です。
 多くの事件につき、被害者側証言、当時の戦犯裁判の記録、「実行犯」である日本兵へのインタビューなどをもとに、その実態を多面的に浮き彫りにしてみせます。
 被害者側証言としては、冒頭の新聞記事でも取り上げられていますが、娘の目の前で父親の肉を食べた、というショッキングな事例を紹介しておきましょう。
永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』
■ホビータ=ヘロカン、クリセンシア=アリンボグ姉妹の場合■
 そういう貧しいけれど平穏な日々が一変してしまったのが、一九四五年一〇月一〇日だった。
 その日の正午ごろ、自宅で茄でたカモテとバナナの昼食を取っていると、突然三人の日本兵が現われた。父親のアウグスティンさんは家の外にあった鳩小屋で鳩の世話をしていた。父は「気をつけろ。私たちが恐れている奴らがきたぞ」と家の中にいた姉妹に言った。
 もう二人の日本兵が遅れてやってきて、父の左右の腕をつかんだ。父親に何か聞いたようだったが、父親が答える間もなく、いきなりボロで父親の首を切り落とした。日本兵は、家の中にいたホビータさんとクリセンシアさんの両手をアバカのロープで縛り、家の竹の床にくくりつけた。
 日本兵は彼女達の見ている前で父親を解体していった。一人はボロで、あとの二人は短剣を使った。最初に太ももの付け根から足と胴体を切り離し、膝、足首と関節ごとに切断した。次いで腕を肩から切り離し、肘、手首と切断していった。そして各部分から肉をそいでいき、四枚のバナナの葉の上に置いた。さらに骨を三~四センチの長さに砕いていった。(P52-P53)
 胴体は中央から引き裂き、肺、心臓、肝臓などを取り出してバナナの葉の上に置いた。腸は食べないつもりなのか、引き出して投げ捨てた。頭には手をつけなかった。ボロを持った長いあご髭をはやした兵士が中心で、後の二人は手伝っていた。姉妹はただ泣きながら見ていた。解体が終わるまで一時間くらいかかった。
 その後、一人の兵士が家に入り、鍋を持ち出してきた。その鍋に骨と肉と水を入れた。別の兵士が、姉妹の一家が昼食のカモテを茄でるために使った火の残り火を小枝に点火して来て枯れ草に火をつけ、鍋を火にかけた。猿を煮た時のような臭いがした。
 三〇分くらい煮ると、日本兵達は五人全員が焚火の横に輪になってバナナを片手に肉を食べ始めた。鍋の横に二枚のバナナの葉を敷き、肉を出しては各人手でつまみながら食べた。日本兵は極端に痩せてはいなかったし、飢えてガツガツ食べるという風でもなく、普通に談笑しながら食べていた。
 途中、長いあご髭のがっしりした体格の兵士が姉妹に父親の肉を食えと強いた。父親を殺したその兵士は手で二人の口をこじあけて肉を突っ込んだ。二人は肉を口に入れたが、吐き出した。それを見ていた他の兵士は笑った。
一時間くらいで食べ終わると今度は一人の兵士が姉のホビータさんの肩を押え、もう一人が足を開いて押え込み、先程父親の肉を食えと強いた兵士が強姦した。彼女が抵抗した時、右足の膝の上を短剣で突かれた。その後二人の日本兵がかわるがわるホビータさんを強姦した。ホビータさんの後、クリセンシアさんも強姦されそうになったが、激しく抵抗したために免れた。(P53-P54)
(略)
 この「サイアム事件」は四九年のマニラ軍事法廷で審理されている(起訴項目第4~6項)。姉妹も証人として出廷。裁判官から求められて被告席に座っていた元日本兵の中から彼女らの父親を殺して食べ、ホビータさんを強姦した兵士達を指し示した。二人が共通に主犯格として指したのは、歩兵第七四連隊の別所龍太郎伍長だった。(P55-P56)
 歩兵第七四連隊の別所龍太郎伍長は、一九四九年にマニラの軍事法廷で起訴された二四件の事件の大半に名前が出てくる。(P56)

 この本には、これに類する「被害者側証言証言」が大量に納められています。
 これら一連の「人肉食」事件は、マニラの戦犯裁判でも取り上げられました。多数の兵士が、「人肉食」を認める供述を行っていたようです。
永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』
 四九年のマニラの戦犯裁判に証拠として提出された供述調書のうち、私は二五人の兵士の供述証書を入手したが、そのうち一六人もが明白に人肉食の事実を認めている(ただし、一六人中三人は日本兵の人肉を食べた事実だけの供述)。
 さらに二人が、自分は関与していないが、他の兵士が人肉を食べるのを見たと供述し、一人は他の兵士から人肉を食べたと聞いたことがあると供述している。
 残る六人だけが人肉食に言及していない(ただし、人肉食を明白に否定もしていない)。(P163)

 永尾氏は、戦後帰国したこれらの兵士たちを捜し出し、尋ね歩こうとします。しかし事の性格からでしょうか、大半のメンバーからは会うことを拒否されました。
 氏は、「サイアム事件」などで名前が挙がった別所伍長を、アポなしで訪問します。
永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』
 テーブルをはさんで向き合い、私が質問を始めると、別所元伍長は腕を組んで目をつぶった。
 ― 人肉に手をつけた理由として、食べるものが無かったということの他に、人肉には塩分が含まれていたからということもありますか。
 別所伍長はしばらく黙って考えていた後、目を開き答えた。
 「そういうことも、あったかもしらんな。とにかく塩分が不足しとったから」
 さらに質問しようとすると、
 「全部知ってるんでしょう。もう勘弁してください」と言ったきり、黙りこくってしまった。(P86-P87)

 暗黙の肯定、と考えていいでしょう。
 氏はさらに、2名の元兵士から、「人肉食事件」を認める証言を引き出しています。
永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』
 この事件(「ゆう」注 二組の老夫婦を殺害してその肉を食べた「ティモアン事件」)について穂刈元軍曹と小早川元軍医から直接証言を得ることができた。
 私の取材に対して穂刈元軍曹は「男二人を殺したのは私だ」と証言した。ボロではなく軍刀で、それぞれに三回ずつ切りつけて殺した。それから首をはね、「豚の解体の要領」でさばいていった。
 「その時、どういう心理状態だったか自分でもわからない」と言う。
 そして解体した人肉をハンゴーで炊いた。しかし、いざ食べる段になり、肉を顔に近づけたとたんにガーッと嘔吐した。とても精神的に受け付けなかった。そして川原はたおれたままその晩は小屋に戻らなかったという。
 これに対して、小早川元軍医は、はっきりと人肉を食べたことを認めた。(P118)
 「その時は良心的なものは抑えられていたね。今で言う『心神喪失』というやつだな。戦争だからなにやっても仕方ないとは思わなかったが、仲間と一緒にやったことだし、大層なことをやったとは思ってなかったね。胃の中に入っちゃって、吐き出すわけにもいかないし・・・」(P119)

 被害者側証言に加え、戦犯裁判での供述、さらにその供述書を追認する証言。ここまで揃うと、一連の「住民襲撃・人肉事件」の存在を否定することはできないでしょう。
(2015.11.15)

徴用工も食料だったのかぁ。これで外務省コリアスクールの第三次大戦での敗戦の玉音放送が、台湾や東南アジアに拡散していくのだろう…、終戦ですなぁ…

ひかりごけ事件

「日本人は同胞の肉を食べるのか」

 あくる日の昼ごろ、収容所長のアントノフ大尉が血相をかえて大股で収容所に入ってきて、きびしい命令調で言った。
「ただちに馬車の用意をし、体が丈夫で“逃亡しないような”兵隊を3人選んで出せ」
 わたしはその日の午前、3日間に1回ずつ行なわれる食糧受領の臨時通訳として収容所にとどまっていたので、日本側の大隊長吉村中尉と収容所長とのやりとりをつぶさに見ることができた。吉村中尉は言った。
「馬車の用意はすぐできます。ところでどこへ行くのですか」
「昨日逃げた3人の兵隊を運びに行くのだ」とアントノフ大尉は眼をきらっと光らせて言った。
「つかまったんですか。怪我でもしたのでしょうか」と大隊長はきいた。
 そのときアントノフ大尉はいきなり、にがにがしそうにどぎつい言葉を吐いた。
「日本人(ヤポンスキー)は同胞の肉を食べるのか」

こんな目にあっているのは誰の罪なのか?
 大隊長は驚いて言い返した。
「冗談もいい加減にして下さい。そんなことは考えることもできませんよ。それよりも3人は生きているのでしょうか」
 アントノフ大尉は冷たく命令した。
シベリアに広がる針葉樹林(タイガ) ©iStock.com
「もうたくさんだ。1時間後には本人たちがここに現われるよ。5分後には馬車と兵隊は“ここにあるべきだ”」
 わたしはこの会話を聞いて、3人は重傷を負っているだろうと思った。逃亡者が歩哨に射撃されて負傷した例はこれまでにも何度か見たからである。しかしアントノフ大尉の言葉、「日本人は同胞の肉をたべるのか」という言葉が胸に突き刺さっていた。その意味はいくら考えても理解することができなかった。
 わたしはまた、満州以来のさまざまの出来事を思い起していた。満州の広野のくずれた塹壕や夏草のかげに、両手をひろげ口を開いたまま腐爛していた幾多の死骸、シベリアでのつらい最初の冬、栄養失調や発疹チフスで死んでいった人々、鉄条網を下から這って脱走を試み、歩哨に射たれて白雪を鮮血に染めて重傷を負った兵隊、「お母さん」という一言を最後に息をひきとった栄養失調の人のことなど、こし方のさまざまな出来事であった。
 わたしはさらに、いつ終るとも知れない泥沼のような俘虜生活のことに思いをはせた。わたしたちがこんな目にあっているのは、一体誰の罪であろうか。少なくとも、このような結果を招くうえで、わたしたち自身になんらかの選択の余地があったであろうか。歴史の仕業だろうか。神が存在するならば、神はこうした苦しみをすべて放任しておくのであろうか。それはあまりにも無慈悲ではないか。わたしたちの人生はこれだけのものであろうか。
 ちょうど1時間後、収容所の門の前に馬車が到着した。

ビフテキくらいの厚さに切られた“肉”
 大隊長とわたしは所長に呼ばれて馬車のそばまで行った。馬車の上にあるのは明らかに死骸と思われた。携行天幕がかけられてあったので、死骸の状況はわからなかったが、外から見ても、生きものとは考えられなかった。天幕の上から、落ちないように縄のかけられていることがその証拠であった。
 ――やっぱり殺されたのか。わたしは暗澹(あんたん)とした気持になって、全身から力が抜ける思いであった。
 そのとき収容所長は言った。
「この3人の死骸を収容所の庭にある二本松の根もとに並べておけ。みんなによく見えるように開いておくのだ。わしの命令なしに絶対に動かしてはならない。わかったか」
 3人の兵隊は馬車を松の木の下までひいていって、その根もとに携行天幕を敷いて死骸を並べた。
 ああ、なんという痛ましい遺体だろう。ひとりの遺体は左半身が頭から脚まで焼けており、もうひとりは頭部だけが焼けていた。この二つの遺体はいずれも衣服をつけたままであった。残ったひとりの遺体にはどこにも焼け痕は見られなかったが、後頭部に鉈のような凶器によると思われる深い傷痕があった。また臀部から太腿にかけて皮膚がきれいにめくりあげられ、肉はそぎとられていた。その肉と思われるものが1枚の携行天幕にビフテキくらいの厚さに切って並べられ、一部は飯盒の中に入れられてあった。その肉は馬肉と同じように赤黒い色を呈していた。
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 わたしはそれを見て、1時間前のアントノフ大尉の言葉を思い出した。わたしは、なにか底知れぬ淵に引きこまれるような、この地上に生きていることが恥かしいような、なんとも言いようのない気分におそわれた。夕方、仕事から帰ってきた仲間たちもみんなこれを見た。誰もひと言も洩らさなかった。入れかわり立ちかわりじっと3人の遺体に眼をそそいで、沈黙のまま去っていった。3人の遺体はまる3日間そこにおかれてあったが、2日目になると、もはや誰ひとりそれを見ようとするものはなかった。
 遺体はその後、馬車でブラーツクへ運ばれたが、おそらく検視をうけて、その地の墓地に葬られたものと思われる。

パプアニューギニアの人食いの話は旧日本軍のスピンだな…

中央日報→「人肉丸」の成分分析でヒトの遺伝子を検出=韓国

「人肉丸」の成分分析でヒトの遺伝子を検出=韓国
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.11.20 11:000 글자 작게 글자 크게
死体を材料に作ったとされる「人肉丸」と呼ばれる漢方薬から実際にヒトの遺伝子が検出された。
食品医薬品安全庁のイ・ドンヒ医薬品管理課長は19日、「統合民主党アン・ミンソク議員の依頼を受けソウル市内の市場で流通している人肉丸の遺伝子を分析した結果、ヒトの臓器と皮膚組織などが混ざっていることがわかった」と明らかにした。
問題の人肉丸は薬剤を粉末にしてこねた直径0.3センチメートルの丸薬だ。食品医薬品安全庁の分析ではウシとブタ、ヒツジ、ウマなどの遺伝子は出てこなかった。また、鎮痛剤やステロイド成分、サルモネラ菌などの有害微生物も検出されなかった。
人肉丸は最近議論になった人肉カプセルとともに中国で作られ韓国に密かに持ち込まれたと推定される。人肉カプセルは死産の胎児や乳児の死体を乾燥させた後粉砕してカプセルに入れて作った。慢性腎不全と重症糖尿病、がん患者に良いという根拠のないうわさが広がり一部地域で流通した。
食品医薬品安全庁関係者は、「人肉カプセルにはスーパーバクテリアなど人体に致命的な内容物が入っており、免疫力が弱い人は感染を引き起こすことがある。人肉丸も類似の副作用は少なくないだろう」と話した。食品医薬品安全庁は人肉丸が国際郵便などを通じて持ち込まれた可能性に重点を置き、警察、検察、関税庁など関係機関と共同で流通組織の割り出しに着手することにした。

「糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども,それも程なく尽きぬれば餓死し,人の宍を食合へり…子は親を食し、弟は兄を食し杯しける」…

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