弁財天

ゴフマン「専門家を信じるのではなく、自分自身で考えて判断せよ」

横断性脊髄炎とギランバレー症候群と大原麗子… update3

閻麗夢博士(Dr. Li-Meng Yan)の舟山コウモリウィルスのエビデンスと菊コウモリと岩手県野田村起源の野田ウィルスw

ペルーのギラン・バレー症候群の原因は汚染水だな…

夏から秋にかけて大気中のストロンチウム90は最大になる。そして熱中症で内臓が溶ける

ACE2受容体

1954年中曽根康弘 原子力予算採択
1954年南太平洋ビキニ環礁でおきた焼津港マグロ漁船の第五福竜丸の水爆実験被災←1945年の原爆投下と第五福竜丸の被曝データから、ミャンマーまでのキクコウモリの生息域のアジア人がサイトカインストームに強いACE2遺伝子型を持っていることが判明したのだろう…

ALS女性は City College of New York 建築学部卒の「建築士のキャリアウーマン」でハゲイと同じ命日…

731部隊w

鳥の生肉のカンピロバクターに感染したことが原因だとされているけど、このカンピロバクターてコロナウイルスと同じフィクションなんだろ…w

【20代の終わりに免疫システムの不具合から手足のマヒなどを引き起こす「ギラン・バレー症候群」を発症。】

配偶者
渡瀬恒彦[2](1973年 - 1978年)
森進一[2](1980年 - 1984年)

生年月日 1946年11月13日
20代後半だと1966~1975なので渡瀬恒彦かぁ
大原麗子はオードリーヘップバーンみたいなことをされてる…

peaceofcakes.blog.fc2.com→大原麗子が綴った「森進一との離婚」「渡瀬恒彦と暮らした日々」 発掘スクープ 大女優の「心の叫び」

大原麗子が綴った「森進一との離婚」「渡瀬恒彦と暮らした日々」 発掘スクープ 大女優の「心の叫び」 2017/07/20 00:32
 時には甘い愛の言葉が、時には辛辣な批判が、大原麗子さんの残したスクラップ・ブックには並んでいる。自分の気持ちに正直に、女優としての人生を歩みきった彼女が、ここに確かに生きている。

■私からほれたと思う? 
 〈現代の女優にも美しい人はたくさんいますが、大原麗子さんのほうがはるかに輝いていた。その理由は彼女の『人間らしさ』にあったと知りました〉(53歳・女性)
 〈彼女のように自分の気持ちに正直に生きたスターはもう現れない! 〉(48歳・男性)
 本誌9月13日号に掲載された、大原麗子さん自作のスクラップ・ブック。そこに綴られた彼女の「心の叫び」に、読者から続々と反響が寄せられている。
 大原さんの実弟である大原政光氏が語る。
 「時には少女のような可愛らしい字で喜びを表し、時には男性のように力強い字で不満や批判を書いている。どの書き込みも本心をストレートに綴っています。飾らない人柄だった姉が、このスクラップ・ブックには生きているように感じます」
 最愛の人・渡瀬恒彦との結婚生活、森進一との離婚、ギランバレー症候群、尊敬する俳優との出会い―。波乱万丈の人生を生きた大原さん。女優・大原麗子として芸能界を生き抜くなかで、彼女はどんな思いを抱いていたのか。およそ20冊に及ぶスクラップ・ブックに綴られたすべてを、ここでご紹介しよう。
 '64年にドラマ『幸福試験』でデビューした大原さんは、翌年東映に入社。その美貌と確かな演技力で、着実に人気女優としての道を歩んだ。そして'72年、25歳の時に、彼女は人生の大きな転機を迎える。映画『三匹の牝蜂』などで共演した、渡瀬恒彦との婚約だ。
 婚約した頃のスクラップ・ブックには、渡瀬のことを純粋に愛する一人の女性の姿が見て取れる。
 二人のツーショット写真が貼られたスクラップ・ブックの余白には、こんな書き込みがある。
 〈私からほれたと思う? 答え 渡瀬からです ジャン〉
 〈ナイスカップルでしょうー〉
 〈(婚約発表が2月14日だったことを報じる記事を見つけて)ビックリ バレンタインデーだ〉
 書き込みだけではなく、インタビューで「わたしは三十までに(赤ちゃんが)欲しいんだ」と答えている箇所には、ピンク色のマーカーで線が引かれていた。
 喜びの書き込みは、正式に結婚した'73年頃も続いている。
 スクラップ・ブックの表紙には、〈渡瀬麗子〉と大きく記され、こんな文言が並んでいる。
 〈恒彦さんまじめ 上がってるみたい ウフン
 私どうどう(と)してるでしょ! 〉
 〈すごく可愛いし カッコイイよ渡瀬サン 初めてで最後の婚約 結婚〉
 その後、東京・成城に新居を構え、順風満帆な夫婦生活を送り始めた二人。しかし5年後の'78年に電撃離婚。二人の間に何があったのか。
 政光氏が振り返る。
 「嫌いになって別れたわけではありません。姉は最期の最期まで、渡瀬さんを愛していましたから。ただ、渡瀬家の家風に馴染めなかったんです。女性は家庭に入って夫を支え、子供を育てる。それが渡瀬家の考え方でした。しかし結婚後、姉はますます人気が出てしまった。次々と舞い込む仕事に忙殺される日々。そうして、すれ違いが起き、渡瀬さんご本人というより、渡瀬家の方々との溝が深まっていったんだと思います」

■病と中絶
 結婚3年目の'75年、マドンナ役を務めたドラマ『新・坊っちゃん』に関する記事の横には、こんな書き込みがある。
 〈原因不明「なんでしょう」
 ギランバレー症候群発症
 東大病院で〇〇先生とお会いして9月入院〉
 大原さんはこの難病が原因でドラマを途中降板したが、初めて仕事から離れた闘病生活は、皮肉なことに、役者として生きる決意を固めるきっかけとなった。
 「入院したとき、姉は『ドラマを降りるのだけは避けたい』と言っていました。病室の枕元に台本を置いていたほどです。渡瀬さんも献身的に看病してくれたのですが、姉の仕事に対する思いは、降板によってかえって強くなった」(政光氏)
 発症から1年後の'76年、彼女は見事復帰を果たす。病を乗り越えて演技力はより一層磨きがかかり、オファーはひっきりなしだった。そしてすれ違いを続けた二人は、ついに、別れを決断した。スクラップ・ブックにはこんな言葉が残っている。
 〈断腸の想いで渡瀬と私二人は決意したんです〉
 離婚後、彼女は前以上に仕事に邁進する。「すこし愛して、なが~く愛して」のフレーズで知られるサントリーのCMに出演を始めたのもこの頃だ。
 女優として生きる決意をし、順調にその道を歩んでいた大原さん。しかし、色気を放つ妙齢の独身女性を、「業界の男たち」は放っておいてはくれなかった。
 スクラップ・ブックからは、言い寄ってくる男たちに辟易している彼女の様子がわかる。
 〈(ある有名作家に関する記事の横に)ストーカーでした HOTELのTelを私に教えてかけて下さいと名刺を二枚くばってました 「数うちゃあたらないって」〉
 私は仕事に生きたいのに、なぜ男たちは放っておいてくれないのか―。彼女がそう悩んでいたとき現れたのが、二人目の夫・森進一だった。
 「森さんは演歌歌手になる前、『スクールメイツ』に在籍しており、姉とはその頃からの知り合いだった。つまり芸能界の幼なじみみたいなものですね。森さんはずっと姉のことが好きだったようです。だから姉は、自分が森さんをコントロールできると思ったんでしょう」(政光氏)
 そして'80年に結婚。しかし結婚生活は、彼女が予想していたようには進まなかった。政光氏が続ける。
 「森さんは姉の想像以上に、姉を家庭に入れようとしたようです。最初の結婚のときと同じように、夫を支え、子供を育てる妻を望まれたんです」
 家庭に入るか。仕事を続けるのか。再び選択を迫られた彼女は、答えを出来る限り先延ばしにしたが、決断せざるを得ない出来事が'82年に起きる。
 「姉が『子供ができた』と相談してきました。もちろん森さんとの間にできた子です。しかし姉はこのとき、あるドラマの主演が決まっており、出産は降板を意味していた。姉は『堕ろしたい。病院を紹介して欲しい』と言った。決意は固かったですね。森さんは何も知らなかった。姉が一人で決めたんです。
 ただ、悩んだ末の決断だったことは確かです。というのも、姉は中絶した直後に、キャッシュカードの暗証番号を変えたんです。新しい番号は、子供を堕ろした日付でした」(政光氏)

■ギソウ結婚でした
 その後、夫婦の関係は冷えきったものになり、2年後の'84年に離婚。子供のことには一切触れられず、森への不満ばかりが目立つ当時の書き込みからは、彼女が抱えていた罪の意識の大きさがうかがえる。
 まず、スクラップ・ブックの表紙にこんな文言が躍っている。
 〈バンザーイ〉
 〈鳥カゴのとべない鳥 私〉
 〈解放〉
 〈離婚どうってことないネ〉
 〈楽しい アンポンタンの顔をみないですむ〉
 そして森との結婚生活や離婚について報じる記事の脇には、こう書かれていた。
 〈(幸せ一杯の再婚という記事の下に)とんでもないあのストーカーたちから早くのがれたかったのよ〉
 〈(結婚生活について事実とは違う記事の横に)ゴメンネ 真相しらないんだものネ ギソウ結婚でした〉
 〈(空白部分に)やっと家を出られた 永―間(永い間)どうしたら家を出られるか考えてた〉
 その後、大原さんは女優として絶頂期を迎える。離婚した'84年には、代表作の一つである『くれない族の反乱』に出演。さらに同じ年、映画『男はつらいよ』で二度目のマドンナ役を務めた。その翌年には、『樋口一葉 われは女成りけるものを…』で好評を博し、'89年にはNHK大河『春日局』で主演を務め「大女優」としての地位を確立した。
 結婚相手には最後まで恵まれなかった彼女だが、同じ俳優として尊敬できる男性は何人かいたようだ。その一人は、『人間の歌シリーズ 冬の雲』('71年)、『愛と死の絶唱』('79年)、『くれない族の反乱』('84年)、『雨の降る駅』('86年)などで共演した田村正和だ。
 あるスクラップ・ブックの最後のページ。空白部分に大原さんは、田村の印象を書いている。
 〈田村さん 今と同じカッコつけてる フダンはホントは面白い事言うの。あん外おしゃべりなの 内緒だけど〉
 '78年に彼女が主演した『いのちの絶唱』についてまとめた記事の脇には、女性らしい細い文字で、こんな言葉があった。
 〈役者として大好きな田村正和様がほめて下さった 嬉しい〉
 大原さんは自らに関する記事をまとめたスクラップとは別に、お気に入りの俳優の記事も切り抜いていた。それはまるで中高生の女の子が作るような「ファンブック」だった。
 その一つが「高倉健ブック」だ。
 まだ駆け出しだった'65年の『網走番外地 北海篇』で高倉と初共演。以後、『あにき』('77年)、『居酒屋兆治』('83年)、『チロルの挽歌』('92年)など、数多くの作品で一緒だった。
 高倉健ブックの表紙には、こんな言葉が書かれている。
 〈健参 パチパチパチパチ御登場です〉
 〈待ってました―。「ヨッ健さん」〉
 〈健さん、人にきびしく、自分に甘いと思うわ。でもでも大好き。そんけいしてます〉
 〈カッコイイーでしょ。やっぱり自まんです〉
 ページをめくっていくと、こんな知られざるエピソードも書かれていた。
 〈(『チロルの挽歌』で脚本を書いた)山田太一先生に高倉健さんを書いて欲しいとお願いしたの 人の事だからお願い出来るワケ。これがやっと実現したの。自分にオファがくるなんて思ってもなかった ビックリしたしきんちょーしました〉

■たけしへの想い
 意外な人物のファンブックもあった。'90年『浮浪雲』で共演したビートたけしである。
 二人がバラエティ番組で共演した際の写真の脇には、大はしゃぎしている彼女の文字が並んでいる。
 〈素敵ネー。ファンです。大好きですたけし様。ストーカーではありません。あなたの番組いつもみてるのよ。肩の力をぬいていていいなあ 第一スマートですもの〉
 〈仕事も遊んでるもん すっっごい すんばらしい〉
 〈私が大ファンだって知ってたでしょ 恥ずかしいから云わなかったの、云えなかったの〉
 〈(フライデー襲撃事件を受けて)君らしいしカッコイイヨ 彼女を守ったんだから。私も男だったら一人でフライデー行くな〉
 〈ひょうきん族の最後の日花束もっていったの覚えてる ビックリした? 又今度ゆっくり食事しようネ 愛妻弁当はもう作らないから〉
 一方、自分の気持ちに正直に生きた大原さんだけに、嫌いな者に対しては辛辣な言葉を書き連ねた。
 〈(脚本家の台本に対して)めちゃ直しました。カンネン的すぎて、ひどいセリフでしたから〉
 〈もうライターとしても人間としても終わりです〉
 〈(プロデューサーに対して)最悪なキャスト。判らない人ばかりでした。キックバックでしょうか〉
 それだけに、制作サイドとの衝突は絶えず、'90年代後半からはドラマへの出演が激減。自身のスクラップ・ブックも作らなくなった。そして'98年頃にギランバレー症候群を再発したとして芸能活動を休止。'09年8月6日、連絡が取れず不審に思った政光氏らによって、自宅で一人亡くなっているのが見つかった。死因は脳内出血だった。
 「実は姉は晩年、躁鬱病にもなっていた。それゆえに、過去に作ったスクラップ・ブックにきつい悪口を書き込んだりしたんでしょう。ただ姉は、常にファンのためを想っていました。現場で衝突したのも、そのほうがファンが喜んでくれると信じていたからです。それだけは、いくつになっても変わりませんでした」(政光氏)
 息を引き取るときは一人だったが、彼女のお別れの会には、友人たちだけでなく、不仲が伝えられていた脚本家や、別れた二人の夫もかけつけた。誰よりも美しく、誰よりも自由奔放に生きた彼女を、みんな愛していた。
 (文中一部敬称略)
 「週刊現代」2014年9月20・27日号より

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