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ゴフマン「専門家を信じるのではなく、自分自身で考えて判断せよ」

「チャオクンプラ(Chao Khun Phra)」の称号を剥奪されてハニトラ軍事クーデター失敗?ワチラロンコーンが即位礼正殿の儀に来ーんw update8

国王配偶者の称号剥奪=「背信行為」を非難-タイ 2019年10月22日00時07分
タイ王室が8月に公開したワチラロンコン国王(左)とシニーナートさんの写真
 【バンコク時事】タイ王室は21日、ワチラロンコン国王(67)がスティダー妃(41)とは別の女性に授けた「国王の高貴な配偶者」を意味する「チャオクンプラ」の称号を授与から3カ月足らずで剥奪したと発表した。王妃と同等の立場を求めるなど国王に背信行為を働いたためとされ、女性は所属していた陸軍の階級も失った。
 国王は誕生日の7月28日、長年交際していたシニーナートさん(34)に称号を与え、8月には2人で過ごす姿などを捉えた写真が公開された。チャオクンプラの称号授与は1932年に絶対君主制から立憲君主制に移行後、初めてだった。
タイのスティダー王妃=撮影日不明。タイ王室提供(AFP時事)
 シニーナートさんは看護師を経て陸軍で国王の護衛を務め、今年5月に少将に昇進していた。
 王室によると、シニーナートさんは5月の国王とスティダー妃の結婚を妨害しようとした。その後も王室の称号を求めたため、国王は混乱を回避しようと配偶者の称号を与えたが、王妃のように振る舞って国王夫妻に反抗的な態度を取った。王室は声明で「国家と王室に対する破壊行為」と厳しく非難した。

タイ国王が4回目の結婚 新王妃は元客室乗務員 2019年5月2日 9:55 発信地:バンコク/タイ [ タイ アジア・オセアニア ]
タイ国王が4回目の結婚 新王妃は元客室乗務員❮ 1/5 ❯‹ ›
タイの首都バンコクで、婚姻の儀式に臨むワチラロンコン国王とスティダー・ワチラロンコン・ナ・アユタヤさん。タイのテレビ各社が共同設立した「テレビプール」の映像より(2019年5月1日撮影)。(c)THAI TV POOL / AFP
【5月2日 AFP】タイ政府は1日、ワチラロンコン(Maha Vajiralongkorn)国王とかねてパートナー関係にあったタイ国際航空(Thai Airways)の元客室乗務員、スティダー・ワチラロンコン・ナ・アユタヤ(Suthida Vajiralongkorn na Ayudhya)さんが同国王の4人目の妻になったと発表した。国王の戴冠式を週末に控える中、驚きの発表となった。
 官報によると、スティダーさんはこれまでも「国王の妻(Queen Consort)」の地位にあったが、王室の伝統にのっとって国王と「法的に結婚した」ことで、「スティダー王妃(Queen Suthida)」となった。
 この発表を伝えたテレビ放送は、首都バンコクのドゥシット宮殿(Dusit palace)で行われた婚姻の儀式の様子を放映。映像では、白い軍服姿の国王と、伝統のタイシルクのドレスを着たスティダー王妃の姿が見られた。
 ワチラロンコン国王は4日から3日間にわたる大掛かりな儀式を経て、チャクリ(Chakri)王朝の第10代国王として正式に戴冠する。タイ国王の戴冠式は、同国王の父であるプミポン・アドゥンヤデート(Bhumibol Adulyadej)前国王の戴冠以来70年ぶり。
 ワチラロンコン国王は前国王の死去を受けて2016年に即位したが、戴冠式は行われていなかった。
 同国王は過去3回の結婚歴があるほか、頻繁にドイツを訪れている。タイでは不敬罪に関連する法規が厳しく、同国王の華やかな私生活に対する国民の視線が遮られている上、報道各社は自己検閲を余儀なくされている。(c)AFP

wikipedia.org→タイ語
「タイ・カダイ語族はシナ・チベット語族に属するとされてきた[1]が、独立した語族であるとするのが通説である。欧米の学者を中心に、タイ・カダイ語族をオーストロネシア語族と合わせる説(オーストロ・タイ語族)や、さらにオーストロアジア語族およびミャオ・ヤオ語族とも合わせる説(オーストリック大語族)もある。」w

なんで今日?ちょっと太って笑顔になってるから、まぁいっか、みたいなw

1990年11月12日タイ:ワチラーロンコーン皇太子
2019年10月22日タイ プラユット・チャンオチャ首相[78]

あ、ワチラーロンコーンが即位礼正殿の儀に来ないw

wikipedia.org→即位礼正殿の儀 招待した国・地域・機関

「もともと、「天皇制の打倒」を強く主張していた同党は、2004年に綱領を「天皇の制度は憲法上の制度」と改定している。5月1日には、天皇陛下のご即位に共産党は祝意を示し、6月4日付の機関紙『しんぶん赤旗』紙面で志位和夫委員長は、女性・女系天皇に賛成すると発言していた。それでも、今回は欠席するという。分かりづらくないか。」

ピエール瀧の偉大な功績でピエール共産党が暴露され、コカインを満載したJPモルガンの貨物船が摘発されたからw

「秋篠宮は、宗教色が強い天皇の即位の儀は国費で賄うことが適当かどうか。私的行事でやるべきだと発言したとされています。共産党はその影響を受けているのかもしれません」w

天皇制が問題なのではなく、天皇制を犯罪に利用する悪党に問題があるわけで、そんな犯罪が表面化すれば、その対策は三権分立の仕事になるだけ…。

即位の礼なのに秋篠宮の名前ばかりが飛びまくるw

うーむ。やはりピエール瀧は偉大だ…w


ゲラゲラ…

wikipedia.org→古歩道ベンジャミン

ベンジャミン・フルフォードはカナダ、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学を卒業。たぶんこれだけの情報で説明になっているのでは?w

dailyshincho.jp→〈太平洋戦争は“架空な歴史”“勝算なき戦争”〉赤い宮様「三笠宮殿下」に関する識者の見方
〈太平洋戦争は“架空な歴史”“勝算なき戦争”〉赤い宮様「三笠宮殿下」に関する識者の見方 社会 週刊新潮 2015年12月3日号掲載
 明治以降の皇族方では最長老の「三笠宮崇仁親王殿下」においては、過去の数々の”斬新なお言葉”で知られている。
 お印にちなんだコードネーム“若杉参謀”として南京に赴任されていた殿下は、そのご経験に基づき、44年1月に将校らを前に講話を行われた。「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられたその内容は、軍紀の乱れや現地軍の独走を激しく指弾するものだった。

■南京虐殺への言及
 南京で見聞きした日本軍の行状についても、56年に上梓された『帝王と墓と民衆』(光文社)に付された『わが思い出の記』にてこう嘆かれている。
〈罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉
〈聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか〉
 いわゆる「南京虐殺」についても、
〈最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係はありません〉(「THIS IS 読売」94年8月号)
 と、言及される。

■紀元節反対
 また、GHQによって廃止された祝日・紀元節を復活させようとの気運が高まった時期には、“紀元節に科学的根拠なし”との論陣を張る。
「文藝春秋」59年1月号に発表した論文〈紀元節についての私の信念〉によれば、
〈昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。〉
 さらには、中国側が日本軍の残虐行為を映画化した『勝利行進曲』なる作を、昭和天皇にお見せしたというのだから驚きである。
〈その映画を持っていき、昭和天皇にもお見せしたことがあります。もちろん中国が作った映画ですから、宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています〉(前出・「THIS IS 読売」)
 12月2日に100歳を迎えられた殿下。これらのご意見を、識者はどう読み解くか。

■大変な記憶力
 実際に三笠宮さまを取材したことのある皇室ジャーナリストの久能靖氏は、
「30年も前、殿下の研究室にお邪魔したことがあります。幼少時代に過ごされた御用邸のお話をされた時には、敷地内の細部まで正確に回想なさるなど、さすが学者らしく、大変な記憶力に驚きました」
 そう振り返りながら、
「一連のご発言は、当時の情勢では宮様でなければ命を落としかねないような内容で、勇気がおありだったのでしょう。お年が14歳離れている昭和天皇にとっても、殿下からもたらされる中国の情報は、仮にそのままは受け入れられないとしても、実際に軍に籍を置く弟宮からの貴重なお話ですから、お耳を傾ける価値がおありだったと思います」
 一方で現代史家の秦郁彦氏は、こう推察する。
「当時の中国で軍紀の乱れがあったのは事実で、参謀である殿下の耳に入るほど不祥事が頻発していたということです。それでも、主たる敵はあくまで米国で、広い視点から戦争全体を考えた時、いつまでも中国戦線が終わらず大軍が大陸に残ったままで勝てるのか、という思いが殿下にはあったはず。軍紀が乱れれば中国の民心を掌握できず、戦局に悪影響が出かねない。そんな懸念からなされた講話なのでは、と思います」
 また、戦後においても、
「紀元節についても学者としてのお立場から発言されたのでしょうが、国の記念日だから根拠が重要だという主張と、根拠が不十分でもよいのではという2つの論陣があり、いずれの立場で発言してもそれ自体が政治問題となってしまう内容でした。たとえ事実であっても、皇族のご発言は必ずどちらかの陣営から利用されてしまうのです」(同)

■100歳を迎えた暁には……
 時に“赤い宮様”と呼ばれながらも信念を貫かれ、3男2女に恵まれた三笠宮さま。が、02年には三男の高円宮さまが急逝、12年には長男の寛仁親王、その2年後には次男の桂宮さまが続けて薨去されてしまう。
 皇室ジャーナリストの神田秀一氏が明かす。
「10年前、90歳のお誕生日を迎えられた際には、ご家族が集まってお祝いが催されました。殿下はそれを大層お喜びになり、100歳を迎えた暁には、寛仁親王殿下が中心となり、より盛大にお祝いしようというお話が、お身内で出ていたのですが……」
 公私ともども、万感胸に迫る一世紀を過ごされてきたのである。
「特集 『三笠宮殿下』百寿祝いで思い出す『紀元節反対』と『南京虐殺言及』」

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