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ゴフマン「専門家を信じるのではなく、自分自身で考えて判断せよ」

豪政府の国家基盤へのサイバー攻撃が強化されたが「どの国が関与しているかを特定しない」と表明w update4

suricata-5.0.3が東品川からの大量の偽ACKと偽RST攻撃を検知w

香港が米本土と直結してサワーダ・ジユーン(NTTコム)と禿を迂回したいと言っているw

【サイバー香港研究】香港 → HKIX → NTT(HK) → NTT(JP) → NTT(米)

ワールド2020年6月19日 / 09:58 / 17時間前更新 豪政府やインフラ事業者などにサイバー攻撃、背後に中国との見方 Reuters Staff 1 分で読む
[シドニー 19日 ロイター] - オーストラリアのモリソン首相は19日の記者会見で、同国の幅広い組織が「国家を基盤とする」高度なサイバー攻撃を何カ月も受けており、最近になって攻撃が強化されたと明らかにした。関係筋によると、豪政府は中国が背後にいるとみている。
首相は同国のあらゆるレベルの政府組織、政治団体、日常生活で不可欠なサービスの提供者や重要インフラ運営者が標的となっていると説明した。
「攻撃規模の大きさと性質から、国家を基盤とする高度なサイバー攻撃だと考えている」と述べた。
また、このような攻撃を行う可能性のある国家は多くないが、オーストラリアはどの国が関与しているかを特定しないと表明した。
だが政府筋はロイターに「攻撃の背後に中国がいることにかなりの確信がある」と述べた。
在豪中国大使館はコメントの求めに応じていない。
レイノルズ国防相は、一連の攻撃による大規模な個人情報流出の報告はないと明らかにした。
モリソン首相はこの問題について、18日にジョンソン英首相と電話協議したほか、その他の同盟国にも説明したことを明らかにした。
ロイターが昨年9月に報じたところによると、豪政府は同年3月、豪議会へのハッキング攻撃について中国に責任があると結論付けた。豪政府が攻撃元の身元をこれまでに公表したことはなく、中国は責任を否定している。
豪中関係は、豪州が新型コロナウイルス発生と拡散の国際調査を求めていることで悪化している。
*内容を追加して再送します。


うーむ。それはふつうにサワーダ・ジユーンと禿だよw

【パラダイス文書】NTTコムとSOFTBANK TELECOMの(2000-Mar-07)のラザラスなペアw

ぴゅあ☆ぴゅあ1949 もーネタはいいから真面目に考えようぜ

白洲次郎とは何者だったのか(37)

以前のエントリで、横浜正金銀行と白洲次郎との関連を記述しました。参考:白洲(27)

また、白洲次郎がジャーディン・マセソンのジョン・ケズウィックと友人であったことを記述しました。
参考:白洲(36)

さて次郎の祖父、白洲退蔵は横浜正金の取締役でした。
退蔵は、短期間ではありますが、頭取まで務めています。

その退蔵の築いたコネクションは、子の白洲文平、孫の白洲次郎まで
代々引き継がれていただろう、という考察です。

Wikipediaより 横浜正金銀行 
貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、
やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、
香港上海銀行(HSBC)、チャータード・マーカンタイル銀行
(1959年にHSBC傘下へ)と並ぶ外国為替銀行へと発展していった。

だが、関東大震災と昭和恐慌で大きな打撃を受け、更に15年戦争、
第二次世界大戦においては日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関と
看做されたために、敗戦後の1946年にGHQの指令によって解体・清算され、
外国為替銀行としての役割は新たに設立された東京銀行に引き継がれる事に
なった。

設立に当っては、1円銀貨の導入を支援するなど当時の日本の
海外貿易・外国為替に大きな影響力を持っていたHSBC(香港上海銀行)を
模範とし、HSBCも横浜正金銀行に協力を惜しまなかった
<以上引用>


▼上海というと、思い浮かぶのが“ジャーディン・マセソン商会”
 さて、横浜正金とマセソンには繋がりがあるか?

Wikipediaより 香港上海銀行
◎設立
1865年3月にユダヤ系イギリス人のアーサー・サッスーン卿
(ロスチャイルド一族のメンバー。父親はデイヴィッド・サッスーン)に
よってイギリス(大英帝国)の植民地の香港で創設された。
一ヵ月後にはイギリスの共同租界が置かれていた清の上海で営業を開始した。

当時は香港に本社を置き、主に在華外国企業(サッスーン洋行、
ジャーディン・マセソン商会、デント商会などの阿片貿易商社)の
インドなどの他の大英帝国の植民地との間における貿易金融を扱ったほか、
通貨の発行も行っていた。

◎日本政府への協力
設立翌年の1866年には日本支店を横浜に設立し、
その後大阪や神戸、長崎にも次々に支店を開設した。

 ※編注:白洲家は神戸にあった。

日本政府の貿易金融政策の顧問業務や造幣への協力を行った他、
日本最初の近代的銀行で、東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の
前身である横浜正金銀行がその体制を作る際には、
香港上海銀行をそのモデルにし、香港上海銀行も多くの協力を行なった。
<以上引用>


早稲田大学webより 香港上海銀行の経営戦略(上)
 
1877年1月にはジャーディン・マセソン商会も香港上海銀行に資本参加し,
ケズウイック(William Keswick)を取締役として,同行へ送り込んだ

香港上海銀行の対日戦略は当初から積極的であった。
同行は,1865年3月に香港本店と上海支店で同時に闘業したが、
その翌月早くも神奈川(横浜)に代理店を開設した。
(委嘱先はマクファーソン商会=Macpherson&Marshall)

次いで1866年5月(慶応2年迅月)横浜支店を開設するとともに,
長崎に代理店(委嘱先はグラバー商会=G1over&Co.)を開設。

ところが,その頃(1884年)には,横浜正金銀行(1880年設立)をはじめ
わが国の各種金融機関が経営基盤を固めており,香港上海銀行の存在は
かつてのオリエンタル・バンクほどの重要性をもたなかった。 

このため,香港上海銀行は,横浜正金銀行等と協力して,日本政府発行の
外債引受けなどを通じて,日本における営業基盤の強化を図ったのである。

第2次大戦中には,敵対国ゆえに業務の中断を余儀なくされたものの,
終戦後は占領行政下にいち早く支店を再開した。
<以上引用>

のむけはえぐすり 第57弾 原善三郎の話
その36 香港上海銀行の正体

ジャーディン・マセソン商会は香港上海銀行の強力なライバルとなった。
しのぎを削った仲ではあったが、誰か仲介をする人がいたのだろう、
ジャーディン・マセソン商会の会長Keswick(ケスウィック)さんは
香港上海銀行と和解し、ケスウィックさんは香港上海銀行の
取締役に迎えられた。
<以上引用>


▼香港上海銀行を介して、ジャーディン・マセソンと横浜正金、
 ひいては白洲退蔵とマセソンは浅からぬ繋がりがあったのでは?
 ということが想像できます。

 さて、退蔵の子、次郎の父である白洲文平は
 『綿貿易で大成功した』と 書かれていることが多いですが、
 なぜ『綿貿易』なのか? なぜ大成功したのか?

 昔、義務教育の社会科の時間に三角貿易というのを教わったかと思います。

  ※三角貿易
    茶:中国→英国、 綿:英国→インド、 阿片:インド→中国

 元々インド自体は綿の産地ですが、アメリカが黒人奴隷を酷使して
 安価な綿を販売したため、インドの綿事業は壊滅的な状況になり、
 英国資本は、綿の代わりに芥子(阿片)を栽培させた、という
 流れがある様です。


のむけはえぐすり 第78弾 原善三郎の話 その56
ジャーディン・マセソン商会 帝国主義的自由貿易主義

まず、ジャーディン・マセソン商会とアヘンとの関わりだが、
1832年に開業してから4年目にあたる1836年の、
ジャーディン・マセソン商会の主要商品の仕入額を見てみる
(「近代中国とイギリス資本」、67p)。  

輸入では、アヘンが476万ドル、インドの綿花214万ドル、繊維製品60万ドル。
輸出では、茶が274万ドル、生糸が232万ドルとなっている。
<以上引用>

(追記2010/09/27)
渡邉幸雄公式ホームページより
「白洲商店」(は)「土佐商会」という土佐藩から出た会社と付き合いがあった。
<以上引用>

土佐商会とは三菱の前身。
『日本人が知らない 恐るべき真実』より、“三菱フリーメーソン説①”
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060916
土佐商会の主な取引先は、英国のグラバー、オールト、プロシアのキニツフル、
ハルトマン、オランダのシキュート、ベルギーのアデリアンなどの各商会で、
買い取った商品のほとんどは、高価な武器だった。
(略)
弥太郎が土佐商会で交渉を持った外国商人の一人に、トーマス・ブレイク・
グラバーがいる。「死の商人」グラバーはイギリスの大商社ジャ-ディン・
マセソンの長崎代理人だった。
<以上引用>


▼戦前のイギリスは、綿産業な密接な関係がありました。

 その中で、ジャーディン・マセソンと白洲家に繋がりが
 あったとすれば、その取り扱い品目の中では、
 もっとも日本市場向きの商品であろう
 『綿貿易』へ向かったのは必然的な流れでしょう。

 退蔵-横浜正金-香港上海-マセソン-綿-文平
 と、ひとつのサークルになっていることが分かります。

 白洲文平が、『綿貿易』で巨万の富を築くことが出来たのは、
 悪名高いマセソンと組んでいたからこそ、という推測が出来ます。
 (両者が組んで相場を操っていたのではないか)

 白洲次郎は、英国留学の経緯を、「素行が悪くて島流しにされた」と
 いった言い方をしていますが、これは口実でしょうね。

 祖父および父からの、ジャーディン・マセソンほか英国資本との
 繋がりを継承するため、白洲次郎はイギリスへ派遣されたのだ、
 と私は思います。
 
 白洲次郎は、留学時代に同窓生が驚くほどの仕送りを受けていますが、
 それは、英国筋との関係を継承し発展させる為の資金であり、
 白洲家の財力を見せつけるための、いわば『見せガネ』ではないのか。

 その方が、莫大な仕送りの理由としてムリが無いような気がします。


◆参考リンク

のむけはえぐすり 第91弾 原善三郎の話
その69 ジャーディン・マセソン商会 HSBC取締役

1877年1月、W.Keswickさんは、HSBCに請われる形で、取締役に就任した。
経営の多角化を目指すジャーディン・マセソン商会にとって、
HSBCとの提携話は資金源として魅力だった。

HSBCの事情。 
HSBCが創業して間もなく恐慌に見舞われ、取締役の重鎮デント商会が倒産した。
1874年の数々の投資プロジェクトの失敗によって、剰余金が前年の
100万香港ドルから1875年の末には一挙に10万香港ドルに減らし、
HSBCは無配に転落した。

この危機を乗り切るために、HSBCはイギリス系最有力商会から
取締役を迎えることが急務となり、W. Keswickさんを取締役に招いた。


「アヘン戦争」の舞台裏 
(トーマス・)グラバーは、1859年に英国から上海に渡り
「ジャーディン・マセソン商会」に入社。
その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に
「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として
「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、薩摩、長州、土佐ら
討幕派を支援し、武器や弾薬を販売した。
(略)
彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、
キリンビールや長崎造船所を作った。

『余多歩き』より、“フィクサーとしての白洲次郎 5”
(白洲文平の弟の)長平さんが 大正の相場師 高倉父子のダミー役を
引き受けたり、この高倉父子が 白洲の仲買店で 相場で損をしたと
ある以上 文平さんの本業は 確かに現物も扱うが 先物の相場で 
ヘッジをかける以上の取引をしていたのに間違いはないように思う。
そして場合によっては 先物以外の株も 自分だけでなく 
一般の客も相手にしていたんだろうと思われます。

滋賀大学大正バブル期における起業活動とリスク管理
白洲長平の名前あり。

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