弁財天

ゴフマン「専門家を信じるのではなく、自分自身で考えて判断せよ」

中止された「B計画」1960年1月8日の東芝鶴見研究所のトーラス型核融合実験と中性子被曝 update5

1960年横浜の鶴見周辺に何か強力な放射線源があったのではないかと指摘されて調査開始。


昭和34年(1959年)4月25日「核融合研究委発足。3日間カン詰めで検討」


昭和34年(1959年)5月5日にB計画の内容が書いてあった。
「最近やや大型の核融合反応装置の建設計画、いわゆる「B計画」が進められている。 これはアイデアの新鮮さは二の次として、具体的な装置の建設を行うという計画のようにきいている。」

やや大型の核融合反応装置の建設計画がB計画。Bて爆弾のBだな。純粋水爆。土人はこんなことばっかりやってますた。

大河千弘と核融合研究

3.日本の核融合研究に対する大河の関与 次に大河の日本の核融合研究体制への関わりを見て いく.大河は1950年に東京大学を卒業した後,宮本梧 楼研の助手となり,核物理や加速器研究に従事してい た[2].これらの研究の一環 として行ったCERNや米国へ の留学の際に,大河は世界で始まった核融合反応の平 和利用を知り,宮本研への書簡の中で欧州諸国のプラ ズマ・核融合研究の現状を報告している.

大河が留学から帰国した1958年頃,日本国内では研 究体制を議論するAB論争が白熱しており,大河は宮本 や森茂とともに閉じ込め研究を重視するB計画の立場 を取っていた.この時の結論は基礎研究を重視する立 場のA計画が優先され,その結果,1961年に名古屋大学プラズマ 研究所が設立された.先に記した様に,大河は1960年にGAに移 った為,当時,プラ研設立に落ち着いたAB論争の結果を の様に見ていたかを断定する事は難しい.しかし,伏見 は当時の日記に,“大河 や森といった宮本研出身者 がプラ研から距離を取っている様に感じる”と記して おり,伏見から見れば,少なからず大河の中に不満がある と感じていた様である. その後,伏見は大河の活躍を見ていく中で,次期プラ研所長として 大河を推し,日本への帰国を促している. しかし結局,大河がプラ研所長になる事は無かった.

「1958年頃,日本国内では研究体制を議論するAB論争が白熱しており, 大河は宮本や森茂とともに閉じ込め研究を重視するB計画の立場を取っていた. この時の結論は基礎研究を重視する立場のA計画が優先され,」

これがAB論争。


昭和35年(1960年)1月15日「東芝のプラズマ実験装置完成」
東芝鶴見研究所。東芝で完成したトーラス型核融合実験装置。
「トーラス型実験装置は東大理学部大河千弘教授の提唱する考え方にもとづいて設計されたもの」
実際の完成は昭和34年(1959年)12月上旬だった。

この当時は遮蔽なしで核融合実験をしてしまったのだ。
土岐市の核融研に厚さ2メートルのコンクリートの遮蔽がある。しかし東芝鶴見工場の遮蔽は工場の壁だけだった。


昭和35年(1960年)2月25日「核融合、高温プラズマの研究、まだ緒についたばかり」
「D-D中性子のエネルギー分布と角分布。 超高温プラズマから、核反応により中性子がとび出してくるが、 この中性子のエネルギー分布と角分布を求める計算式と計算結果を報告したもの。」

げ。遮蔽なしで実験してしまったか。

再びこれの1ページめから。
大河千弘と核融合研究

この計算結果を発表した1961年4月のAPSSpringmeeting では,装置を2次元空間で議論している事やトーラス状にした 時の考慮をしていない事,内部導体を無限長として計算を行 っている事から,同装置によるプラズマ閉じ込めの可能性が疑問視 され,会場にいた伏見の報告には“あまり注目を浴びなかった”と記さ れている.しかし,大河らはMultipole装置によるプラズマ閉じ込めの 実現性に対して確信を持っていた様で,理論実証の為に装置による 研究を開始した.
みっちゃんと鶴見周辺の住民を中性子被曝させてまで行った核融合実験の計算式が疑問視され学術的には無意味だった。がーん。


昭和35年(1960年)5月5日。辞任する原子力委員会核融合専門部会の委員。 「辞任 渡辺寧、大河千弘、後藤以紀、本多侃士」

追悼■物理学界の巨星大河博士を偲ぶ

2014年9月27日大河千弘博士が米国カリフォルニア州サンディエゴ市の自宅で86歳の生涯を閉じられました.
うーむ。 みっちゃんより6才、忍者より2才年上。同じ世代かぁ。 芸名の「大河」て大河千弘博士の大河だったのかぁw なんだかなぁ。 どうしよーもないね。


昭和35年(1960年)7月25日。「プラズマ研究所の設立を検討。学術会議核融合特別委員会」
核融合研究の部隊が名古屋大学に移動。そして核融研になる。


昭和35年(1960年)10月25日。核融合専門部会の解散。
「核融合部会…核融合の基礎研究を重視する研究者とB計画の促進を要望する研究者と意見が対立した結果、 将来の発展に禍根を残さないためB計画の実施を見合わせた。」

B計画、やや大型の核融合装置の建設。 こえぇぇ。もしB計画が推進されてたら、横浜市鶴見の周辺住民は中性子爆弾で全滅ですな。みっちゃんも死んでたな。 で、これが現在の土岐市の核融研のトカマクになったんだわ。おまいら2メートルの厚さのコンクリート遮蔽があるだけマシだと思えよと。


昭和35年(1960年)11月05日。 「核融合の研究は、えらくむずかしいことになってきたというのが実感である。」


「1960年の原子力界を顧る。1月8日(1960年1月8日)。東芝鶴見工場でトーラス型核融合装置が完成し公開実験を行った。 1千万度の高温を千分の1秒間維持が可能。」

遮蔽なしの東芝鶴見工場で核融合実験をやってしまったことは間違いない。周辺住民に起きたのは中性子被曝だったのだ。

みっちゃんが妊娠してた頃ですな。 この当時、周辺では指が1本多い(多指)とか、ミツクチ(たぶん口唇口蓋裂)と言われる奇形出産が多発したそうである。そのミツクチの子供は小学校に行くまでに整形外科で手術するそうで、整形外科は物凄く儲かったとか。

生涯を振り返って、横浜市鶴見の核融合、川崎市平間で王禅寺と浮島の挟み撃ち、高崎原研の加速器の風下大泉学園で理研和光研の重粒子ビーム、そして311。これって山下俊一の言葉でいう「被曝のチャンピオン」になっていることが本日(2016年2月21日)判明。

なにがショックかというとA計画だろうがB計画だろうが、どうでもいい研究だったということだ。 トカマクや核融合なんて2016年になっても大した成果はでてない。 高速炉では露がBN-800をグリッドに接続して発電を開始、日本の「もんじゅ」はそれに50年遅れている。 しかし核融合の成果はその「もんじゅ」以下。まわりくどい水爆研究でしかない。 こんなくだらない研究の為に周辺住民は中性子被曝してしまった。

あまりにも情けなーい話なので公安が出動。口封じ、恐喝や殺しや精神薬テロが必要になるわけね。 脱力感とともに全貌が見えてきたかんじ。

ピカ☆ンチを調査してたら、さらに判明。

昭和40年(1965年)7月27日 「神奈川県川崎市小向東芝町1の東芝中央研究所内にある核燃料研究室で濃縮ウランガスがもれ、… この六フッ化ウランガスは、日米原子力協定に基づき、アメリカから輸入したもので、…」
六フッ化ウランのガスを米から輸入?ありえねー。ガス拡散法で濃縮してたんだろ。

昭和40年(1965年)7月27日の川崎市小向東芝町1の東芝中央研究所て平間のすぐ近くだ。 被曝のチャンピオンの原因にこのイベントも追加。

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