弁財天

ゴフマン「専門家を信じるのではなく、自分自身で考えて判断せよ」

相田みつをの最中

忍者が最中をおみやげにくれた。
最中はあまり好きくないので、ご近所に配ってしまったよ。
書の広告を飛び込み営業してたんだね。

私は若い頃、生活のために、商店の包装紙のデザインや宣伝文を作る仕事をやっておりました。
家にいたのでは仕事はきませんからあちこち注文取りに歩きました。
香雲堂さんに行った時のことです。ご主人が自分の店の包装紙を私に見せて、
「これよりいいものを作る自信がありますか?」と聞くんです。私は即答しました。
「自信は少しもありませんが、うぬぼれだけはいっぱいあります。」
するとご主人は、「ほう、あんたはおもしろい、頼もう!」ということになりました。


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  • 栃木県足利市、相田みつを
    息子 相田一人

  • 「しあわせは いつもじぶんの こころがきめる」

  • 誰のモノマネではない自分の道を貫き、楽に食える学校教師や書道の先生の道を捨て、
    あえて自分の言葉だけを書く「書家」伝統的な書体を捨て、信念と極貧を貫いて、
    しかし、食うために飛び込み営業で菓子屋の包装紙もデザインしたり、
    後は個展と講演で6畳一間程度の借宿浪人を10数年続け、
    59歳の時に米田建築設計の企業周年誌に作品が取り上げられて口コミだけで10万部が出て、
    それを知った一個人のデザイナー松本さんが自費で「にんげんだもの」を出版し、
    60代〜死後に現在まで累計500万部のロングセラーで、
    今後死して尚数百年〜多くの人に勇気と元気と救いを与え続ける

  • 84年に出版された「にんげんだもの」(文化出版局)の大ヒットが、
    相田みつをの名を全国に知らしめた。

  • 「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」

  • 東小学校(現在は廃校)、旧制足利中学校(現在の県立足利高校)
  • 市立山辺小学校や足利高校のPTA役員も務めるなど社交的な一面
    背は高く往年の時代劇スターを思わせる風貌
    話術にも長けている

  • 「どんな雑草でも 時期がくれば だまって自分の花を咲かせ 自分の実をつける」

  • 相田みつをは文体とは違い、人の好き嫌いが激しく、
    周囲にも意外に嫌われていたそうだ。事実、地元では人気がない。
    書道界でも従来の型を無視し、独自の文体で業界内では村八分。
  • 30歳で独立書家となったが
    売れたのは60歳
    死んだのは67歳
  • 40歳の頃から講演活動をやっていた

  • 「そのときの出逢いが 人生を根底から 変えることがある よき出逢いを」
  • 「ただいるだけで
    あなたがそこに ただいるだけで その場の空気が あかるくなる
    あなたがそこに ただいるだけで みんなのこころが やすらぐ
    そんな あなたにわたしも なりたい」

  • 1924年5月20日、相田光男は、刺繍職人の父・喜平と、気性の激しい母・エイの三男として生まれた。
    成人後、地元の生活協同組合で働いていたが、ある日、資金の使い込みを発見。
    正義感の強い光男は、世渡りのうまい同僚・麻生忠夫が止めるのも聞かずに上司に訴え出るが、
    その夜、数人の男たちにひどい暴行を受ける。この一件で人間不信におちいった光男はそれから4年間、
    自分を溺愛する母・エイの庇護のもと、自宅での療養生活を送ることとなる。
    だが、その療養生活の中で、光男は人生に大きな意味を持つ人物2人と出会う。
    ひとりは禅寺の住職・武井哲応だ。武井老師が発する一字一句は光男の心を解きほぐし、
    光男は27歳の春、一念発起し、短期大学の夜間部へ入学する。そして同じ頃、のちに妻となる千江とも出会う。
    千江と初めて言葉を交わした日、光男は「千江」「逢」という文字を何度も書いた。
    最初はしっかりとした楷書だったが、やがて自由でやわらかな字体へと変化していった。
    千江を思いながら心のままに書く書が、光男は楽しくて仕方がなかった。
    それは、光男の書に“命”が吹き込まれた瞬間でもあった…。
  • 書家としての活動をスタートし、千江と結婚した光男。
    だが、書は売れず、貧困、将来への不安、嫁姑の確執、納得のいく創作ができない焦り…といった深い悩みを抱える中で、
    光男は悶々としたを過ごす。そんな毎日の中で生まれたのが、

  • 「うそはいわぬ ひとにはこびない ひとのかげぐちはいわぬ わたしにはできぬことばかり」

  • 「やれなかった やらなかった どっちかな」

  • 「そのうち そのうち べんかいしながら日がくれる」

  • 相田みつをは生協をもめ事で辞めたあと、一時期は「お習字の先生」書道教室をしていたと自伝にある。
    しかし、ある時、師匠から教えられた「正法眼蔵随聞記」を読み、若き日に修行中の道元禅士と先輩僧とのやりとりで
    「畢竟=何の用ぞ?」を自分に置き換えた。そして・・・以下は自伝より抜粋
    「色即是空 空即是色 かねが人生のすべてではないが あれば便利 無いと不便です 便利の方がいいなあ」
  • エラソウでイイことばっか言ってる相田みつを。
    実は親を殺すこともできず、いい年になっても親と同居のパラサイト+ニートで、どうしようもない男だった。
    師匠の一人、紀野一義も、今から40年前の著書「生きることが下手な人たちへ」で、
    人生を捨てた山頭火や尾崎放哉と同じく、当時無名だった相田みつをを「女好きなどうしようもない男」と断じている。
    そういうことだ。
  • 相田みつをは、大正十三年(1924)、栃木県足利市家富町で誕生した。
    本名は光男。父喜平、母エイの3男。四男二女の六人兄弟だった。
  • 「私の家は不幸にして両親がいつも夫婦仲が悪かったんです。晩年は別居しましたから。
    そういう仲であったから、とうちゃんとかあちゃんがけんかしなければいいなという、
    不安や脅え(おびえ)がたえずあったんですね。」(C132)

  • 坐禅を始める
    旧制栃木県立足利中学に入学し、剣道部で活躍した。卒業年次に山下陸奥の主宰する歌誌「一路」に参加した。
    歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の禅僧・武井哲応老師と出会った。みつをは、これより、四十年、坐禅を続けた。
    昭和十八年[十九歳]書家の岩沢渓石に師事して、書道を習った。昭和十九年、太平洋戦争下で軍隊に応召され、
    宇都宮の連隊に配属され、敗戦まで通信兵の訓練を受けた。
    母がみつをを離そうとしなかったので、ぶらぶらした生活を送っていたが、
    昭和二十六年[二十七歳]に関東短期大学夜間部国文科に入学し、二十八年、卒業した。

  • 書道で身をたてる
    昭和二十九年[三〇歳]第一回の書道の個展を足利市で開催した。この年、平賀千江と結婚した。
    第六回毎日書道展第一部(漢字)に入選し、翌年から数年にわたって毎年入選した。
    昭和三十年には、ろうけつ染めの技術を学び、近辺の会社、商店の包装紙、暖簾、風呂敷等のデザインを制作することで生計をたてた。
    昭和三十四年に、第二回個展を開催。三十六年からほとんど毎年開催し、昭和五十五年が、第十五回であった。
    昭和四十一年、足利市八幡町に、アトリエを作り終生この地で創作を行った。昭和四十八年より、全国各地で講演を行った

  • 母のエゴ
    みつをは、母のエゴイズム(利己主義)が子供をだめにする、と強い言葉で言っている。
    ある精神科医は「母源病」と言っているが、母の愛情の注ぎ方や育て方によって、
    その子供が青年期に心の病気(拒食症、神経症など)を起こすことがあるという。
    「母親のエゴが、結果的には子供自身をみんなダメにしている、とわたしは断言いたします。」(B26)

    実の母のエゴイズムが、自分をだめにし、妻を苦しめた(テレビS)と思ったことからこの言葉が生まれた。
    母が死んで、「気らく」というほどに、母と妻の確執に苦しんだことが感じられる。

    「父母の 亡きさびしさと 気らくさよ もくれんの葉に 雨ふりつづく」 (D29)

  • 母と妻の確執
    みつをの母による、嫁(みつをの妻)のいじめは相当に激しいものだった。
    みつをの二人の兄が戦争で死んで、母は、しばらく発狂した。それ以来、母の愛情は、みつをに注がれた。
    みつをは正義感があって、ある組織の不正を追求しているうち、暴漢に襲われ、重症をおった。
    四年間、入院退院を繰り返し、神経衰弱、不眠症になった。母の衝撃は大きく、母の愛情は、ますます異常になった。
    母は息子の身を案じるあまり、仕事をさせなかった。短歌の会で千江と知り合い、結婚したが、母は反対であった。
    母は、みつをを盲愛するあまり、千江に「あなたの作る食事ではみつをがかわいそうです。
    食事も着る物も、こちらで用意します。」という。「千江への憎しみは異常なんです」と、みつを自身が語った。
    妻が母に責められているのをどうすることもできず、つりなんぞに逃げ出してしまうみつを。
    ここへんに、母のエゴに苦しめられる妻を救えない夫たる自分の不甲斐なさに、
    みつをは「母のエゴが子供をだめにする」というのであろう。

    母の妻への圧力は想像を絶していたので、みつをは坐禅に救いを求めた。みつをは、母がこうでなかったら、
    一途に禅の教えを請わなかったかもしれないと言って、「逆縁の菩薩」の言葉が浮かんだという。
    「おふくろは俺に苦しい思いをさせることによって、俺を救ってくれた菩薩さまではないのか。」

    母が自分を苦しめる人、逆縁の菩薩、と思う悲しい認識である。そういう母も死ぬ直前、母が妻に話かけた。
    「あんたもからだには気をつけたほうがいいよ」と。二十五年間に初めて聞くいたわりの言葉だった。

  • 仏教の心を書で
    武井老師に禅の指導を受けながら、さまざまな自分のエゴイズムに気づき、書にして、人々に示すと、それを見て、
    身の上相談に来る人が多くなった。仏教の心をわかりやすく伝えるだけで喜んでくれるひとがいる。
    「仏様のことばを自分なりの言葉に表現して世の中に働きかけていくこと。」それが自分に与えられた使命ではないのかと思った。
    昭和四十九年[五十歳]在家の仏教活動として円融会を作り、「円融だより」を発行した。
    それは一九九一年まで七十七号を発行した。昭和五十五年、米田建築(兵庫県川西市)の創立記念誌
    「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」が作られた。昭和五十八年「相田みつを にんげん展」を東京、小田急百貨店で開催。
    昭和五十九年、デザイナー松本瑠樹の尽力で『にんげんだもの』を出版した。
    そののち、『おかげさん』『一生感動一生青春』『いのちいっぱい』を出版した。
    平成三年十二月、脳内出血により死去した。

    翌年、遺稿集、『いちずに一本道いちずに一ツ事』が出版された。平成八年、東京銀座に「相田みつを美術館」が開かれ、
    相田みつをの書が展観されている。

  • その人に逢う
    相田さんは、足利市の高福寺の武井哲応老師に禅の指導を受けた。相田さんの人生への影響を大きく受けた。
    そこで、相田さんは、人に出逢うことの重要性を強調している。
    「そういう人との<出逢い>をして欲しい。つまり、生涯の師、<人生の師>といえるような人と出逢って欲しい、
    ということです。人生の師との出逢い、それをわたしは、<絶対者との出逢い>と呼んでいます。
    鎌倉時代の名僧、道元禅師という方は、絶対者のことを<正師>と呼んでおります。
    わたしにとっての正師は、同じ足利市内におられた、曹洞宗高福寺の住職、故武井哲応老師です。」 (A17)

  • 「その人 その人の前にでると 絶対にうそが言えない そういう人を持つといい
    その人の顔を見ていると 絶対にごまかしが言えない そういう人を持つといい
    その人の眼を見ていると 心にもないお世辞や
    世間的なお愛想は言えなくなる そういう人を持つといい

    その人の眼には どんな巧妙なカラクリも通じない
    その人の眼に通じるものは ただほんとうのことだけ
    そういう人を持つがいい

    その人といるだけで 身も心も洗われる
    そういう人を持つがいい

    人間にはあまりにも うそやごまかしが多いから
    一生に一人は
    ごまかしのきかぬ人を持つがいい

    一生に一人でいい
    そういう人を持つといい」 (B52)

  • 人に逢い、そして超えよ
    正師に会え、とは、釈尊も道元禅師も言う。「よき人にめぐり逢え」ということは、同様であると思う。
    しかし、注意が必要である。指導者の中には、来る人を真に精神的に独立させる誠実な心があるのではなく、
    自分の収入の継続、自分の組織の拡大、とりまき人間の数を増やす意図のある「我利」(その本人の利益)の精神を持つ宗教者がいる。
    特に、自分を絶対者と考える宗教者は、独裁者にほかならず、信者を自分への忠誠心の差異により、必ず差別する。
    そのような、絶対の人は実は、人を差別する俗物であるから、近づかないほうがいい。
    人はみな本来仏、師に頼るという呪縛からも精神的独立をはたさなければならない。

  • 親は独立を願う
    子供を真に愛する親は、子供がいつまでも親への依存心を持つのをやめさせ、子供が親に依存(精神的にも経済的にも)せず、
    生きていけるように独立性をとげるよう育てるであろう。禅の指導者の願いも似ている。様々な問題を自覚した人が禅をしたいとたずねて来る。
    すべての人が、すばらしい仏性を持ちながら無自覚でいるために問題をかかえて、思想宗教に頼る気持ちが起きただけであるから、
    そこを気がつかせて、自分が「主人公」であることに目覚めさせて、
    「もう、指導してうただく必要がなくなりました。」と独立してもらうことが、「正師」の願いである。
    まずは、指導者とめぐり逢い、その指導によって、問題をかかえる自分の心をみつめていく。しかし、指導者への依頼心がおこると、
    自分の心を縛ることになる。正師に導かれつつ、最終的には、自己の根底に「そんな人」(真の自己、仏)を自覚しなくてはいけない。
    そう指導する指導者でなければならないというのが仏教、禅である。いつまでも、組織、指導者に依存する精神ではいけない。
    相田さんがいう「その人」を、「生身の他人」ではなく、自己の根底にみつめるべきである。自分以外の現実の人間に、
    「その人」を求めると、一生求め続け、求めることが止まない。自分とは何か。いかに自分の人生を生きるか、については、
    師と同等、あるいは、師を超えなくてはならない。師はいつまでも、そばにいない。仕事の都合で、師か弟子が遠くへ引っ越していくことがある。
    師が死亡することもある。不治の病になった時、指導者は、弟子の死の問題を代わってやれない。
    結局、問題を、自分で乗り越えていかねばならない。

  • 正法の布教のため、多くの人への慈悲のため
    別な意味でも、仏教は、弟子が、師をも超えることを喜ぶ。師に頼る気持ちも、呪縛である。それも、我執であり、それを捨ててほしい。
    師から、いつまでも独立できなくては、主体的活動が制限される。それでは、正法がひろまらない。それでは、救済される人が限定される。
    正師は、同じような力のある正師をできるだけ多く育てて、独立させていくのが、釈尊を初めとする仏教の慈悲であろう。

    道元禅師は、正師、如浄禅師に出逢って、わずか2年で、師のもとを離れた。白隠禅師も、正師、正受老人のもとで修行し、
    悟りを得ると、すぐ去って、二度と戻らなかった。各自が、師とは、別の土地で、慈悲行を始めた。そうして、正法が、広まっていった。
    相田さんの思いも同様であろう。すぐれた師を持て。師の指導を受け、やがて、師から離れて、相田さん独自の境地を開いて、多くの人に、
    喜びをもたらしている。

  • あまり知られてないが、相田みつをの母は異常だった。長男次男を戦争で失い、母は狂乱。
    三男の「みつを」を異常なほどに溺愛した。一度は生協に就職したみつをだが、社内の使い込みを発見。
    兄から教えられた正義感で、事実を公にしようとして暴漢に襲われ、母はその後、「大事な息子」と、外での仕事をさせなかった。
    さらに結婚したみつをの嫁を徹底的にいびり倒した。が、みつをは母に何も云えなかった。その鬱憤もあったのだろう。
    「相田みつをの女遊びは相当のものだった」と、師匠の一人で仏教学者・紀野一義の本「生きるのが下手な人へ」に書いてある。
    サイテーの男であり夫だったのだ。が、相田みつを自身、自伝で「逆縁の仏=憎んできらいな相手がいたからこそ、今の自分がある。
    それは自分を虐めた教官であり、母であった」と仄めかしている。母に悩まされ、母が妻を虐めても何もできない自分。
    さらに「下手字の書家」で59歳まで食えなかった。その葛藤で道元をもう一人の師匠・武井老師から学び、仏陀の言葉で自分自身を救いたかった。
    その想いを書で書いたら、同じ悩みを抱えた多くの人がいて・・・。

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